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yumin
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ユーミンこと松任谷由実が荒井由実として独身時代の最後に発表した2枚のシングル、75年の<あの日にかえりたい>と76年の<翳りゆく部屋>は、それぞれオリコンの第1位と10位になり、前者はドラマの主題歌として毎週お茶の間に流れ、後者は教会の生パイプオルガンを前面に配して、聴く者の心をとらえた。当時ラジオを付けていればこれらの2曲を聴かない日はなく、街に出るとレコード店はもちろん、デパートに行けば洋服を選んでいる間に、スーパーに居れば食パンの売り場でも、その2つを耳にすることが出来たほどだった。それは数字通りの、数字以上のヒットだった。彼女は当時、すでに押しも押されもせぬ「ニュー・ミュージックの天才女性旗手」であり、彼女の書く詞曲のことごとくがファンや聴く者の気分をぴたりと言い当て、僕らが日常の奥底に自覚しながらも上手く表現出来ないままでいた、高度経済成長下の日本に生きる人々の心模様を、美しく、みずみずしいタッチで差し出し続けていた。 そしてその美しさとみずみずしさは、当時のどんな日本人にも、真似が出来なかった。

僕は当時、邦楽・洋楽の出会いに感激しっぱなしの少々ませたガキんちょで、同じ音楽好きの友だち連中に「ユーミンは日本のジョニ・ミッチェルだ」と触れ回った記憶がある。「あの声が苦手」「曲や歌詞はいいけどなあ」。しかし、援護が現れた。ビートルズ仲間の一人が、真剣な顔をして、こっちを見返した。「貸して。そのミッチェル」。そのときに貸したジョニ・ミッチェルの『COURT AND SPARK』(『コート・アンド・スパーク』) とユーミンの73年デビュー盤『ひこうき雲』を、とっかえひっかえ聴く日が続いた。自分の中の「荒井由実」は「日本語で歌う洋楽アーティスト」だったかもしれない。当時の幼い自分が洋楽全般から得たいと無意識に欲していたものは、例えば躍動、生命、物思い、意思、広い景色、深い奥行き、平凡でない何か特別な感じ、といったものだった。彼女の音楽の多く、それに先の2曲は、そのすべてを持っていた。最初の躍動を除いたすべてを。

その躍動の不足はディテール、つまり「それまでにはなかった、細やかな描写の抽出と配置」によってすぐに補われた。おしゃれな感じ過ぎる、気取って聞こえる、と言った友達や評論家もいたが、それはある意味で正しかった。その当時、つまり70年代の半ばから後半、イーグルスが『ホテル・カリフォルニア』を発表した頃、日本にいるポップ・ファンは本場アメリカやイギリスに対し、憧れに似た感情を抱いていたからだ。日本人だけれども、英米からやってくる音楽の数々に何かを聴き取り、聴き分け、好きになれる感覚だけは日本人じゃない ―― 。その文化的西洋かぶれの自画自賛、自分がちょっとだけえらくなったような感覚が「おしゃれ」で「気取った」感じを作っていた。振り返ればそれは、ある種の時代の態度だったのだ。

<あの日にかえりたい>と<翳りゆく部屋>は、どちらも今もって、長いユーミンの全キャリア中のハイライトのひとつである。ボッサのように聴こえるソウルである<あの日にかえりたい>、プログレの先鋭のような教会音楽としての<翳りゆく部屋>。どちらもそれぞれの在り方で、彼女の才能が行けるところまで行っており、これ以上良くなる余地を、ほとんど残していない。かつ、どちらの曲もそれ以前の彼女、それ以降の彼女のどんな曲にも似ていない。ある意味で両方とも「孤高」の存在である。それにあと1つ別の共通点が。どちらも「一度は仕上がりながら、最後に歌詞が書き直された」ことである。

<あの日にかえりたい>は、秋吉久美子主演のTVドラマ『家庭の秘密』の主題歌として、いったん完成した。しかし、内容がドラマのイメージにそぐわないという制作サイドの提言を受け入れる形で、全面的に書き直された。過去に誘拐されたまま消息不明になった娘が、その後自分の代わりとして家族が引き取っていた養子の娘と、互いに知らぬまま偶然出会ったことから、2人を含んだ家族全体の時間が、大きく動き始める。花村えい子のコミック『霧の中の少女』を原作とした、大人の鑑賞に耐えるそのシリアスなドラマの核心は、<あの日にかえりたい>の当初の出だし「街灯り / 指でたどるの / 夕闇に染まるガラスに」を、人々が記憶するほどに馴染んだ1行へと変えさせた ――「泣きながら / ちぎった写真を / 手のひらに / つなげてみるの」。

原版<あの日にかえりたい>の歌詞は、その原版のまま別の曲をつけて (といっても表面上はある程度似ている) 、彼女の当時のファミリー的グループだったハイ・ファイ・セットに<スカイレストラン>として提供された。その原版と書き直された最終版。どちらがよりドラマのイメージにふさわしかったかはともかく、どちらが<あの日にかえりたい>の音楽が奏でる言語に合致するものだったのかは、史実によって、真っすぐに証明された。僕らは都合、2つの才能を結果として知ることに。1つは書き直しを求めたTBS制作担当の慧眼、もう1つはその要求に応じて、すぐさま要求以上の回答を返した彼女の作詞力、再考力。『ホテル・カリフォルニア』のアメリカだけが優れていたわけではなかった。当時の日本にも、創造と制作の各分野に、素晴らしいタレントが揃っていた。実り多き、幸せな時代だったのだ。

<あの日にかえりたい>のサウンドは、始まった途端に時計の針が急に逆戻りするような、印象的なイントロで解き放たれる。一打一打に独立した別々の意志を湛えさせる林立夫の、くっきりとしていて悠然とも言うべきドラムスが、聴き手の日常のあちこちにピン止めとしての引っかかりを作り、その引っかかりの隙間を直ちに声の糸で縫うように、ハイ・ファイ・セットのヴォーカル山本潤子の飛翔するパーフェクト・スキャットが通り抜ける。それはひとつの小世界の幕開け、皮切り、火ぶたとして聴き手の目の前に現われ、鳴り出し、その心の内側に、真水のように沁み込んだ。そのあとに続くこの曲の全体が、こちらの時間=聴き手の手中にあるはずの「時」を無作為に映し込む、色褪せた鏡であると知らせるためにである。

「光る風 / 草の波間を / 駆け抜ける私が見える」。褪せた鏡に映ったその時間は、やはり色褪せているのだろうか。そこに見える時間はユーミンの主人公と聴き手の双方に覚えがあり、かつ、互いに共有されたばかりの時間である。彼女の声と言葉がまず先頭を歩き、聴き手がそのすぐ後ろから追ってゆく深い森、時間の蒼き森。名手・鈴木茂、伯楽・細野晴臣のエレクトリックとアクースティック2つのギターが交錯しながら、その深い森全体にこだましていく。ドラムスがそのこだまを、またピンでとめる。光る風を探して、草の波間を、もう一度求めて。<あの日にかえりたい>の褪色する音の光に照らされながら、聴き手は思う。この森は一体どこにあったのか。これは、何の気持ちなのか。「少しだけ / にじんだアドレス / 扉にはさんで / 帰るわ / あの日に」。その扉は、森のどこにある。なぜ自分は、何も口をひらけない。あのスキャットとともに彼方に遠ざかる音楽、かすんで消えゆく主人公、夢中でついて行った自分。それは蒼き森、時間の深き波間に消える。最初のイントロの中へと、すべてがもう一度、巻き戻っていくように。

<翳りゆく部屋>はドラマの主題歌ではなかった。歌詞が書き直されたのは「直接に "死" を想起させてしまう」からだったといわれる。その原版は<マホガニーの部屋>と題され、こんな具合だった。「灰色の夕暮れがそっと / 私に訪れた時 / 私は部屋のドアを開けて / ランプに暗い灯をともす」「冷たいシーツに足をのばし / 闇の世界の入口で / 私の静かな友達を / ただひとり迎え入れる」。自殺に似て非なる言葉に「自死」がある。自分を殺すのでなく、自分を死ぬ。断つのではなく、選び取る。<マホガニーの部屋>はそんな甘美な死、別種の死で満たされていく。早世への憧憬。夭折への過解。なぜ人間はみずから死を選ぶべきでないのかを夜の闇間に説いたアルベール・カミュの『シジフォス神話』は、高級木材で出来た暖かいはずのその部屋には、置かれていなかった。そしてそれ以上に、そのマホガニーの部屋にはそもそも人の気配、痕跡というものがなかった。

「窓辺に置いた椅子にもたれ / あなたは夕陽見てた / 投げやりな別れの気配を / 横顔に漂わせ」。新しい<翳りゆく部屋>は「ひとり」あるいは「無人」ではなくなった。「あなた」がいたのだ。それに先立つ、壮麗なるパイプオルガンと混声コーラスのイントロ。日本のポップ・ミュージック史上、あるいは世界のポップ・ミュージック史上の大部分においても、これほど壮大なる、高揚と硬直を同時に求めるオープニングは、そうそうない。やがて音楽は聴き手に、あるひとつの絵巻を見せる。転。「どんな運命が / 愛を遠ざけたの / 輝きは戻らない / 私がいま死んでも」。練り直されて生まれ変わった<翳りゆく部屋>は、聴き手に対しても生まれ変わりの手を差し伸べる。そこは大きな教会なのだろうか。自分はここで独り、じっと祈っているのか。それは祈りをそのまま飲み込み、人々が各自の時をさかのぼり、再びとらえ、昇華する生の聖堂として形を成していく。彼女のヴォーカルは、その音楽のどんな瞬間にも、天上から降りてくるのだ。ある時は、光さす聖母マリアのように。ある時は、光など持たぬ、持つことを許されぬ、只のちっぽけな人間のように。

その昇華する音楽は、4分48秒の間に語るべきことをすべて語り、告げるべきことを、一度だけ告げる。聴き手が二度とは独力で辿り着けない、住所なき森の只中で。巨大な壮音はそうしながら、主なき聖堂の中に、やがてゆっくりと翳りゆく。その音楽に祈りの耳を投じるただのちっぽけな人間 ―― 君や僕、あなたや私である聴き手とともに。<あの日にかえりたい>と<翳りゆく部屋>は、書き直しが生んだ歴史のいたずらを ―― 1人のアーティストがたまたま加えた創作の変更を ―― あらかじめ決定されていた帰結、つまり運命に似たものへと変えた。その音楽は迷い込み、さすらい、想い、祈り、見つめ、そして再び戻った。深き時間の森、大いなる生の聖堂へと。偶然が繋いだその2つの運命は、別々の時と音楽とを刻みながらも同じ1つの色を、聴き手の横顔と脳裏に、ほぼ永久に焼き付けた。蒼くて遠い、時の色をである : 消えそうで消えないほどに蒼く、届きそうで届かぬほどに、遠く。

中野利樹 (TOSH NAKANO)🍀

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