★お知らせ:12月5日(日) 渋谷ロフト9にて音楽トーク・ライブ
『湯川れい子の千夜十夜 with マイク越谷:クリスマス・音楽トークライブスペシャル:クイーン+ローリングストーンズ+エルヴィス・プレスリー大特集』に出演します★

詳細は➡ https://bit.ly/3lhUKsn

湯川さんは【ポップ音楽誕生以前から評論なさっているポップ音楽紹介の日本の至宝】@yukawareiko そして長きにわたり「ローリング・ストーンズの日本における窓口」であるマイク越谷さん。http://bit.ly/3bBWPtT
SPゲストとして日本人で最もクイーンを良く知る『元ミュージック・ライフ編集長』の東郷かおる子さんも。
スゴい回になる予感。当日会場でお会いしましょう!

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★【新宿歌舞伎町ライブにお越し頂いた皆様】★
ありがとうございました。楽しい一夜でした(^^♪
しかし3時間でもまだまだ時間が足りなかった…(笑&泣)
『音楽トークライヴ』 パート2、パート3、鋭意企画中。またお会いしましょう。
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(左:ソウル・ミュージックの大家=吉岡正晴さん @soulsearcher216
右:伝説のミキサーDJ &ラーメン企画人=OSAさん @OsamuShimizu )

★【マイケル・ジャクソン年末年始ラジオ特番のお知らせ】★
12月28日~1月5日の間、ニッポン放送系列の全国14局ネットで『KING OF POP: マイケル・ジャクソンの挑戦』がオンエア。 1時間SPのメイン・ホストはソウル音楽のベテラン評論家の吉岡正晴さん。『マイケルと長時間インタビューした日本人ジャーナリスト』として僕も出演します。
全国放送予定は追ってお知らせ。
radio








REVIEWS

world

「世界を見つめてみる / するとそれは / 確かに / 複雑に / 震えている」。1986年に英国リーズ出身のバンド、ミーコンズ(Mekons) のトム・グリーンハフが<Hello Cruel World>(やぁ、残酷な世の中) [曲=https://xfs.jp/dHh9n] の中でそう歌っていた。グリーンハフのヴォーカルは二日酔いのように調子っ外れなまずいもので、初めて聴いた者にも「下手だなあ」と分かるものだった。けれども聴き進んでいくと、グリーンハフの歌唱はまったくの本気であり、ミーコンズのサウンドも冗談なんかではなかった。それは「酔っ払いたちの哀歌」だった。フレーズごとに鮮やかに真剣に、誠実になっていくその二日酔いの声は、自分が何を喋っているのかを、シラフの我々よりも遥かにずっと熟知していたのだ。

「この震える手を無視すること / これを血だとは考えないこと / そんなこと / とっくに分かっているよ」。その歌の舞台である架空の戦場から発せられたそのまずい声は、単なるまずさを単に伝えたわけではなかった。毎秒ごとにふらつき、極限に黙殺されながらも、その声と音は麻痺の背後の一束の真剣を、一握の金の灰を、今ここで直ちに探し出され、正しく掌握されねばならない世界の危うい真実を、酔っぱらいながら全力で警告していたのだ ――「君の歌声が / 聞こえたよ / その声は / 勇敢だった」。

その黙殺の勇敢からちょうど15年後の2001年。<Hello Cruel World>のその「まずい」1節が、まさかキャピトル・ヒル(米国会議事堂) 正面に集まった現実のアメリカ上下両院議員有志たちが敢然と、誇り高く、威風堂々と即興で歌った2001年9月11日の<God Bless America>を指すことになろうとは思いもしなかった。その日アメリカ合衆国の至る所に、世界中の家庭の茶の間に、突然本物の、正真正銘のCRUEL WORLDが予告なしに突如生じたからである。

それから10数時間の間、地上の出来事はたったの1つに思えた。まるで地球上にはアメリカという国家しかなく、地上にはテロリストとアメリカ人しか存在していないかのようであり、ただ1つのニュースを伝えるメディアは激しく痙攣し、世界は静止した。すべてのエンタテインメントが突然沈黙し、音楽も例外ではなかった。どんなに優れたポップもロックも、あまりに醜悪すぎるその静止の前に成すすべを持たなかった。そのちょうど10年前、湾岸戦争の時にはそうではなかったのにだ。<Hello Cruel World>の危うさと真剣さは、2001年9月11日には意味を成さなかった。ストーンズの<Gimmie Shelter>もディランの<Like a Rolling Stone>も、ビートルズの<A Day in the Life>も。

知る限りにおいて、そんな事態は戦後おそらく1度もなかった。あの事実、あのテレビ画面の暗黒記号に立ち向かう音楽は、たとえあったにせよ、その暗黒を乗り越えうるものはすぐには見つからなかった。乗り越えるものはないのだと認めること、観念することが、許された唯一の、避けがたい結論であるかのように感じられたのだ。世界各国の数千の人たちの現実の生命とともに、あの日、ロック音楽の世界が持つ想像上の肉体もその身を削がれた。

「これで世の中、マジで終わっちゃったりしてね…」。テレビを見た友だちが電話で言ってきた。その話し声に軽薄な皮肉はまったくなかった。太平洋を隔てた未曽有の大惨事を画面越しに、突然、彼はさらに生きようとしていた。それが口調越しに伝わった。自分にはこれで終わりだとは思えなかったけれども、その代わりに<Hello Cruel World>の別の1節をずっと頭から消すことが出来なかった ―― 「どうしても / 見つけられない / 事態を変えることが / 出来ないんだ」 。。。

人は何よりも楽しみのため、時には悲しみのために音楽を聴く。けれども、たとえ悲しみであっても慰めであっても、そこには結局は一定の歓喜や飛翔への希求、楽しさと密度への渇望がある。自分の感性に単に応えるだけでなく、時にそれを遥か置き去りにしていく望外の響きの瞬間を心のどこかで求めながら。

それは1人の人間が一生のうちに抱え切れない、想像を絶する膨大な多様性の鉱脈である。だから僕らは飽きもせずこの音楽ジャンルが、ポップ・ミュージックという表現形式が好きなのだ。感情や見解の共有と伝達、気晴らし、景気づけ、安っぽい元気づけ、正真正銘の勇気づけ、自分の実人生のバックアップ、自分の見えざる人生のバックアップ、いいなという気持ち、何だこれという気持ち、目に映る世界の肉付け、見落した世界の肉付け、修正、改訂、削ぎ落とし…。

タイミングが合えば、こちらが望んでもいなかった思わぬ宝物を手にすることもあれば、時間の無駄や期待はずれに終わることもある。楽しみが欲しかったのに、違うものを差し出されて困惑したり、逆にその違うものに出会って自分が大きくなったように、誇らしいようにすら思えたり・・・。

それら全てをひっくるめ、それら全てを引き受けて、僕らはこの音楽様式、この文化的表現形式を過去半世紀以上の間 絶え間なく愛してきたのだ。その形式をもう文化とは、宝物とは呼べなくなる。その半世紀がゼロに帰してしまう。ミーコンズがあの時歌ったように、2度とそれを「見つけられなく」なる…。

それから2週間余りが過ぎていき、各種エンタテインメントは、ゆっくりと元々あった場所に戻っていった。「人々にもたらす天啓」よりも「人々から略奪する黙示」の方を選びとったポップの白い1日は「なぜ第二次世界大戦中にロックが生まれなかったのか」を、静かに不気味に、最も強力な形で説明しているように思えた。すべての歴史には壮大なる偶然が、不可知が作用している。とはいえ、その背後にはそれなりの理由が、逆らい難い必然が横たわっているものだ。その必然を事前に察知し、十分に予見していたとしても、現に生じる惨事の叫びを、人は当然の事として克服出来たりはしない。有事のロック ―― その語句はまだ、意味すべきものを意味する以前に、自らを苦々しく詰問している。やぁ、残酷な世の中。

2023年3月。時はあれから大きく流れた。そのCRUEL WORLDに、今も探し出すべき真実は果たしてあるのだろうか。「酔っ払いたちの哀歌」は今もどこかに聴こえるのだろうか。ボブ・ディランがかつて敢えて汎人間的に、『誰の中にもあるエヴリマン』として、未来永劫の方向に悠然と顔を傾けて『答えは / 風に吹かれている』と歌ったように、1987年のマイケル・ジャクソンが<Man in the Mirror>でぴったり30年前のエルヴィス・プレスリー<Peace in the Valley>を継承しながら「夏の間に捨てられたもの / 壊れてしまった瓶のふた / ひとりの人間の魂が / 風に吹かれて / 追いつ追われつ / 舞っている」と歌ったように、答えが今も「まだその風に吹かれている」のなら、それはいつもの心地良い初秋のそよ風でなく、あの時初めて、一度だけ吹いた、重くて冷たい9月の北風の中に今もきっとまだあるのに違いない。僕らは結局、あの冷凍の季節からさして何も変わらず、変えられず、ずっと午前3時に足踏みしているのだ。2001年も2011年も、2023年も、この同じ場所で。

中野利樹 (TOSH NAKANO)🍀

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