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whiter_shade
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あるアメリカのロック評論家がパーシー・スレッジ(PERCY SLEDGE) の<WHEN A MAN LOVES A WOMAN>(「男が女を愛する時」) を評してこう書いていた ―― 「スレッジはこの曲にマッチしていない。それに、そもそもこの曲には、真にマッチする人間の声がない」。すぐれた音楽は、それが最初に作られた当初の時間と場所を越え、何十年も後方の新しい聴き手に届く。それと同時に何十年も以前からの古い聴き手にも。けれども楽曲自体があまりに広大、深遠、完璧すぎて、そこに加わるどんな歌唱ももはや一体にはなれないという音楽は、古い聴き手の一人としては、差しあたって他に1つしか浮かばない。

プロコル・ハルム(PROCOL HARUM) の<A WHITER SHADE OF PALE>(「青い影」) はイギリス出身の6人組である彼らのデビュー作にして最高作であり、当初から現在に至るまで様々なアーティストにカヴァーされ続けている最も世界的に有名な1967年のヒット曲であるが、このひときわ流麗で奥深い音楽を初めて耳にしたとき以来、ヴォーカルのゲイリー・ブルッカーの声が微妙に曲にそぐわない感じをもっていた。<青い影>は時間を越え場所を越えてその都度高らかに、雄々しく、そして何よりも謎めいて響き続けてきたが、その間ずっと、この曲には真の意味でマッチする声がなかった。とにかく、自分はそれを見つけられなかった。

ブルッカーの歌唱は素晴らしいもので、むしろ名唱に入る部類だと思う。ではなぜマッチしていないのか。「彼女を引きとめよう / 海へ向かう16人のヴェスタ神の処女たちのように / 彼女をさせるわけには / いかないから」「理由なんてないわ / 真実は明らかに / そこにあるのよ」。詩人であり、かつバンドメンバーであるキース・リードの隠喩的で難解な歌詞にヒントはない。この曲を歌詞の言葉通りに、客船に乗った一組の男女の気取った泥酔話として済ませるのには無理がある。マシュー・フィッシャーのハモンド・オルガンのフレージングと音色がそうするのを拒み続ける。そのオルガンのモチーフはバッハの「G線上のアリア」、カンタータ140番「目ざめよと呼ぶ声あり」。

この曲は大きい。途方もなく大きい。かつてジョン・レノンがこの曲を "自分の人生で3本の指に入る好きな曲" と語ったときに指していたことと関係があるかはわからないが、<青い影>を愛し続け、一度でもその深遠の淵に立った者は、異口同音にその大きさについて口を開き始める。それはこの音楽の外側に「額縁」がないからだ。音楽の作られている空間、鳴っている空間を普段僕らは "内側" だと感じている。自分の部屋やステレオ、ラジオ、ヘッドホンの間を。外出先で耳にした場合も同じだ。どこであれ、そこは結局、自分の世界のこっち側である。

<青い影>は違う。この曲はいつ、どこで聴いても、外側か内側かを自覚出来ない。ただ曲の聞こえてくる方向がわかるだけだ。だからこそ大きい。この曲は、自らに広大な穴をあける。人の一生に匹敵する穴である。だからどんな歌唱もそぐわなかった。人々はこの曲を何度もかけながら、ブルッカーのヴォーカルがその穴から現れ、そこにまた吸い込まれるように消えていくのを聴く。そしてこんなにすぐ近くで鳴っているのに、どんなに伸ばしても決して手が届く気がしない、遥か彼方のオルガンを追いかける。誰か人が叩いているのではなく自発的に勝手に鳴っているかのような宿命感を伴ったドラムス、そのこだまとともに。彼方に見えるもの、それは多分、永遠である。

そのオルガンとドラムスの音色、動き、間、温度、形、それに距離が結局はその穴の組成源であると気づいた時、聴き手は<青い影>の聴き方を変える:その永遠に一体何があるのか。穴の向こうへ自分も入り込みたくなる。そこへ吸い込まれようと願う。そのあとで戻って来れなくてもである。その曲が跡に残す影ほどにはまだ青かったことのない、この俗世へと。

中野利樹 (TOSH NAKANO)🍀

P.S.
バンド名の由来はラテン語で BEYOND THESE THINGS、
「俗事の彼方に」。

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