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utada
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宇多田ヒカルの<WAIT & SEE>を聴いていると、この曲のPVで彼女が乗っているエアロ・スクーターが欲しくなってくる。自分もそれに乗って無人の東京を自由自在に飛び回り、明け方の渋谷Qフロントで彼女と会ってみたい、そんな気がしてくる。車は見かけても人の姿のないその世界で、彼女はひとりである。スクーターは空中停車している。サングラスを外して彼女はふうっと息をつき、あたりをさっと見渡す。スクーターに乗ったまま、心地良さ気にうーんと伸びをして、明けたばかりの朝の空を見上げる。ひっそりと浮かんでいる朝の月をぼんやり見つめながら両肩で息を吸い込み、1回、2回とまばたきする。口元が、キュッと締まる。

その少しの間の彼女の表情としぐさのすべてが、この音楽が演奏時間の全部を使って意味しようとしているもの自体に、取って変わるような気がする。その短いショットが映し出しているものが、この曲の存在の証しであるように思えるのだ。その場面はうっかりすると見落してしまいそうなほどに何気ないもので、特にフィーチャーされているわけではなく、むしろ、取るに足らない。とにかく、それはただのまばたきである。さっき見たのは何だったんだろう。

もう1度見ると、受ける感じは違ってくる。今度は分かってくるのだ。誰も見ていない早朝の月をそっと見上げる彼女の一瞬の表情は魅力的で、同時に無防備でもある。けれどもその無防備は、無邪気とは違うものだ。彼女の無防備には、単なる無邪気が獲得することのない決然が備わっているように見える。その一連の小さな動きは、どっちにしようか迷いながらもYESの方を選ぼうとしている人間のまなざし、DOが答えだと分かっていながらも、そこにのしかかる不安を完全には振り払えないでいる人間の表情を映していく。見る者はそこに、ものを考え、この世で胸を張って生き、今日もまたそうしようとしている一個人の深呼吸を感じ取る。そうであってこそ、その決然が彼女にとって意味を持つのであり、そこに何らかの代償を払う値打ちがある。そうであるからこそ、そんな彼女の表情が目に止まり、見る者の心に残る。そして彼女が夜明けの月に一人明かした事、宇多田ヒカルがこの曲で皆に明かそうとしている事が、気になり出す。

彼女が発する歌い出しの1つの英単語 "STAY" には2段ロケットのようなディレイ・エコーがかかっていて、たったの1語がもたらすその瞬間の力は、3次元的に、聴く者の目の前に飛び散る。言い換えれば数秒後、リスナーは彼女の "STAY" を信じる。そのエコー処理を信じる。そしてPVの中で彼女がスクーターのドライヴ・レヴァーを両手でぐいと引くように、そこからこの、風に逆らいながら疾走する脱二律背反的傑作ポップの幕が開く。

ジャネット・ジャクソン(JANET JACKSON) のプロデュースで一躍名を馳せた、ジミー・ジャム & テリー・ルイスの本作での控えめで充分な仕事と宇多田ヒカルのヴォイス・アタックの均衡には一種のマジックがあり、その証拠にこの曲はサビの部分で、テンポを刻むドラムスのビートより音楽自体の方が速く進むという離れ業をやってのける。そのマジックが鮮やかなのは、そのワザの対象が演奏のテンポにあるのでなく、聴く側の心理と鼓動の乱れにあるからだ。<WAIT & SEE>には ~リスク~というサブ・タイトルが付いていて、主題はこっちである。物事を変えたいのならリスクをためらってはいけない ― PAY THE PRICE (対価を支払う、犠牲を伴う) ―、それがこの音楽を駆け抜けていく切迫したドラマのメッセージなのだが、それはあまり意味を成すようには思えない。そのメッセージはポップの古い年表の中で何度も繰り返し使い回されてきた、もはや変色してしまった文言であるからだ。誰も見ない壁の落書きである。

本当にその言葉通りのことが言えるには、リスクを払ったからといって物事が望む方向に向かうとは限らない、という強い含みがその音楽の口調の中になければならないのだが、宇多田ヒカルである主人公が直面し、なんとか克服しようとする苦悩と決然のドラマのエッセンスは、しかしちょうどまさに、そこにある。彼女は "どしゃ降りがいっぺんに晴れにはならない" ことを知っているのだ。「もっといい雨が / 降るから」とまず彼女は言う。その後で「くもり空を / 追い抜くから」と言う。この認識の有無の差は、決して小さくはない。<WAIT SEE>の中で彼女はその二言をごく自然に、まるで全然認識なんかしていないかのように歌う。だからこそ、それはうまくいく。 彼女があまりに感情の動きたっぷりに歌い切るために、そのエッセンスは次第に、歌詞が文字通りに扱っている恋愛上のあれこれに関するリスクから抜け出して、それを聴く者のあれこれに関する現実のエッセンスへと変化する。そのエッセンスを音楽を通して体感する、というスリルに変化するのだ。曲のちょうど真ん中で、そのスリルはピークに向かう ―― 「変えられないものを受け入れる力 / そして / 受け入れられないものを変える力を / ちょうだいよ」。

これは歌詞というより、むしろ詩だ。言葉が上出来すぎてそれ自身の律動が強すぎ、普通ならばポップ音楽としてうまく作用しない類の文句である。音楽の動が言葉の不動に負けるのだ。しかし、ブレスのたびに一刻を争い、コーラスごとに上昇しては超越の渦を渇望する特殊なこの音楽の美的構造の内側で、いったん彼女がのどを震わせれば、上の文句は作用しないなんてどころではなくなる。

人が音楽を聴いて、そこから実際に何らかの力を得る機会というのは、別にそこらじゅうにいつも転がっているわけではない。ふだん僕らは、何となくそのことを了解して音楽に接している。ところが<WAIT & SEE>は、その機会の集まりから成る万華鏡なのだ。誰か人が動かすのを待っているのではなく、自ら動いて形を成し、回転パターンは際限なくあるという自走式の万華鏡である。「回らないタイヤが / 目の前に並んでる」 と彼女が歌うとき、聴く側は、それを自分で想像する必要はない。必要なのはただ、その鏡をじっと覗くことである。耳で聞こえるものがすべて、目にも見える。リスナーはこの曲を聴いている間、それを見てもいる。鏡の動きは止まることがない。冒頭のPVのまばたきは、ただのまばたきではなかった ―― 感情のシャッターだったのだ。

「歌は / 変わらない強さ / 持ってる」。彼女はどんな歌でもそれを持っていると言っているわけではない。それは、変わらない強さを持った歌は聴く者の耳のほかに目も奪うはずだ、ということに思える。それら全部がひとつになって意味していることは、人が何かにリスクをいとわないと決めた時、その物事はすでに十分にリアルであり、人は最終的に、そのリアルさに見合った変わり方をするということだ。それ以外の変わり方は、どれもいつわりなのである。その場合には、当のそのリスク自体がリアルでなくなってしまうからだ。彼女の決然の声を借りて言うなら、自分を変えようとする過程で自分が変わってはならないということでもある。壁の落書きはまだある。それを読む誰かが、どこかにいる。

疑問がひとつ。心はどうなのか。この曲は聴く者の耳と目は奪うが、心は奪わないのか。宇多田ヒカルの<WAIT & SEE>は自律性とスリルとを合わせ持った舞い上がるパノラマ・スコープであり、彼女が自分自身のヴィジョンに初めてダイレクトに追いついた音楽であり、最初の1秒から最後の1秒まで、聴く側はそのサウンドトラック付きの万華鏡劇場に浸りきる。そこで5分かそこらのあいだ、思考は流され、聴覚と視覚は固定され、やがて固定されること自体に快感を覚える。そしてiPodのリプレイを止めてひと息つく時に、ふと気づく。「ん? 今さっきこれをかけたのは、この曲に心奪われているかどうかを、確かめるためじゃなかったっけ ?」。

中野利樹 (TOSH NAKANO)🍀

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