このアルバムでは、歌詞は「言葉」として流れない。どんな種類のポップ作品にも言えることだけれども、歌詞は中身を知っていて曲を聴いた方が、その音楽全体の理解の助けにはなるのだが、『VEEDON FLEECE』では別に、特に歌詞とにらめっこする必要はない。この異常に、奇異に張りつめた音楽の中で本当に必要な言葉はおそらく、曲の各々のタイトルだけである。「LINDEN ARDEN STOLE THE HIGHLIGHTS」「FAIR PLAY」「COUNTRY FAIR」「COME HERE MY LOVE」「BULBS」…。そしてアルバムの真ん中に位置する<YOU DON'T PULL NO PUNCHES, BUT YOU DON'T PUSH THE RIVER>。その8分50秒の探求と抹消、強迫と離脱、幻惑と幻影が挑み、迷い込む、モリソンの何かに憑りつかれた詠唱と渇きを訴える管弦楽との深淵の迷宮が、このひときわ特異な時代錯誤アルバムをさらに特別で希少な、取り替えのきかないものにし、モリソンの放つ言葉の洪水を秘中の呪文、禁断のスペルへと醸成していく。
その長く、入りくねった歌詞が「言葉」として流れないのなら、それはどのように流れているのか。「音」「音節」としてである。【作詞のときに一度言葉を揃え、まとめたら、そのあとすぐに解放するんだ。だから歌ってるときには、それはもう「歌詞」じゃない。意味ある音、意味のない音、シラブルなんだ】。モリソンのそのシラブルは『VEEDON FLEECE』では無意味どころではない。<YOU DON'T PULL NO PUNCHES, BUT YOU DON'T PUSH THE RIVER>では、意味があるどころではない。そのシラブルが次々にサウンド上に置いていく呪文の迷路は果てしないと言ってもいいほどだ。この曲の8分50秒は、8時間50分も続くものに思える。日本国内のモリソン関係のファンサイトやブログにこの曲の直訳調の和訳が掲載されているものがあるけれども、タイトルを文字通りに「お前は一切、手加減もしなければ、川の流れを急き立てもしない」と訳してもしょうがない。美的に無意味なのだ。この曲の、『VEEDON FLEECE』の、それにモリソンのこれといった重要な音楽では言葉の一次的な読み取りは無用であり、字面的・表面的和訳は役に立たないどころか、逆に彼の作品の障害物、魔除けに、消臭殺菌剤になってしまいかねない。
<YOU DON'T PULL NO PUNCHES, BUT YOU DON'T PUSH THE RIVER>の全歌詞の意味とそのタイトルの意味を、アメリカの音楽ジャーナリズムにいる元同僚の友人に昔たずねたことがあったが、「そのままで、今すでに確立してる慣用句的な意味を持つものじゃないね。彼の場合特に『上等で複雑怪奇な言葉遊び』って感じが強いしね」と両手を開いて、おどけるように笑っていた。モリソンの隣国アイルランド出身の作家ジェイムズ・ジョイス(JAMES
JOYCE) の訳者泣かせの超難解小説『FINNEGANS WAKE』(邦訳『フィネガンズ・ウェイク』) が、モリソン・シラブルに関してのその場での共通指摘・共通言及になったのだが、その彼の言っていた「遊び」「上等」「複雑怪奇」を念頭に置いたものでない限り、字面上の逐語和訳はしっくりこない。この耳で聴く天変地異、音になった森羅万象の謎は、おそらくこの先、どんな鋭敏なファンや研究者にも解けないのではないかと思う。そもそも『VEEDON FLEECE』の「VEEDON」が何なのかさえ、誰にも分からない。当のモリソン本人にもだ。「いま話しているのは / 真の魂を宿す人たちのこと / リアルのこと」。VEEDON FLEECEとは、巷間言われているような「黄金の羊毛」などではない。
物を文字を、像をじっと見ているうち、やがてその見ている対象物が突然一切の意味を失い、今自分の目にしているものを「脳がどう記憶していたのか」を再想起できなくなる突発的、一時的な視覚・感覚・認識障害であるゲシュタルト崩壊。現在に至るまでそのメカニズムが解明されていない、そのゲシュタルト崩壊に触発されて出来上がったといわれる<YOU DON'T PULL NO PUNCHES, BUT YOU DON'T PUSH THE RIVER>が没入する言語の呪文とケルト、アイリッシュ、主流混濁サウンドの迷宮。それは『VEEDON FLEECE』の残りの9つの小呪文・副迷路とともに、聴き手が日々送っている現代生活、および社会生活の「連続」を、プツンと途絶えさせる。その連続を崩壊させるのだ。本来つながっているのが当然であるその連続性を切断することによって、ついさっきまでその連続が有したはずの価値や意義、社会性、重要性、あるいは非社会性や即席性を聴き手の眼前に露わにし、聴き手を立ち止まらせ、考えさせ、そのあとで一切何事もなかったかのようにその聴き手をまた元の場所に返すふりをしながら、しかし実際には、だからこそモリソンは何もしない。そしてゲシュタルト崩壊がそうであるように、この曲も自らの全体から全体性が、かたまりが、意味記号が消える。瞬間と部分、断片と現在の連続だけが次々とRIVERのように流れては聴こえ、聴こえては流れていくのだ。
『VEEDON FLEECE』の贅沢極まる固有のテンションと融合が生み出すつかの間の内的トリップは、そのアルバムを聴き終わったリスナーに向けて、最後にもうひとつの命題を書置きして消える。その熟考と停止は、いったい何かの役に立つのか。<YOU DON'T PULL NO PUNCHES, BUT YOU DON'T PUSH THE RIVER>の超催眠的呪縛を、決して解けないでくれと願いながら、聴き手は今夜もその曲をリピートする。そして何度目かの再生時に思う。悟る。知らされる。それはこの曲と『VEEDON FLEECE』が規定している「いつか、どこかの時と場所」でなく、いま自分が息をして生きている「ここ」―― この時代のその日常の、この場所の、その人生の現在時間にこそ役立つもの、役立てるべき何物かに転じ得るという第6の直観をである。モリソンの呪文と迷宮はいつかどこかの時と場所ではなく、その音楽が日々再生されている我々の、この現代生活自身を奇妙に、裏返しに反映し続ける。