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ヴァン・モリソン(VAN MORRISON) の1974年アルバム『VEEDON FLEECE』(『ヴィードン・フリース』) をかけるたびに、その中に迷い込んで、二度とそこから出られなくなるのではないかと思ってしまう。抜け出たくてそう思うのでなく、出たくなくなるから思うのだ。ビートルズが地方の一港湾都市リヴァプールから全米へ、地球全体へと乗り出した1964年。その4人組と同じ国家でありながら、島を隔てているためにイギリス本土を夢見た北アイルランド。首都ベルファストの個性派R&BバンドであるTHEMから出発し、ソロ転向後も幾多の歴史的傑作を残しつつ、現在もなお活動している孤高の、異色な、しかしれっきとした売れている世界的人気アーティストであるモリソン。『VEEDON FLEECE』は74年作なのだが、1974年ではなく1874年、あるいは2074年作品であるかのようにかつて聴こえ、今もそう聴こえる。幅広い支持と人気を獲得しているメインストリームの主流アーティストの作った音楽にはとても思えない。というよりも、その異次元音楽はそもそも「いつかどこかで製作された」ものに聴こえない。

その古めかしくて新奇な抑揚音楽は、アーティストが苦心してこしらえたというよりも、ある時誰かが土を掘り、偶然見つけ出したもののように聴こえる。ポップ音楽の領域における創作物というよりもむしろ、純粋芸術上のファウンド・オブジェクトのように、そこに存在する。作られたのでなく、丸ごとそのまま発見・発掘されたのだ。100年前の、100年先の誰かに。オープニングの<FAIR PLAY>は、このアルバム全体の中ではほんのウォーミングアップ、とっかかりに過ぎないが、今日普通に流通している他の一般的ポップ作品と並べると、そこにある圧倒的な審美性と異なる時間の流れ、不可解で不可思議な言葉の記号、複数の場所を行き来する歌唱と演奏の広大な座標が、聴く者の世界の中の一般を混乱させ、探索させ、凌駕する。優雅で謎めいた、解き難くかつ醒め難いサウンドの迷宮と歌唱の幻夢が、そこから華麗に口火を切る。

<LINDEN ARDEN STOLE THE HIGHLIGHTS>で鳴るピアノは、まるでモリソンの縮小版オデッセイの終身テーマ、帯同BGMに聴こえる。リンドン・アーデンはハイライトを盗んだ ―― 何の脈絡も前後関係も必要なく、冒頭とサビのその一行のみで、この曲の2分37秒の描写のすべては事足りる。「ハイライト」が何を指しているのか分からなくてもである。オデッセイ=トロイ陥落の後のオデッセウスの放浪と冒険の彷徨。命尽きるまで続く恒久の旅。モリソンの場合は、ハイライトを盗んだ時に犯したかもしれぬ殺人の罪を背負っての逃亡と流浪の旅であり、このアルバム全体を貫く、ほんの手がかり程度しか説明されない歌詞とともにそのモリソンは、そこに居ながらも先のピアノとともに、曲から出たり入ったりを繰り返す。

「彼はいま / 銃といっしょに / 暮している」。それは公の時代性や個人の感覚の隔たりを一瞬にして1枚の絵画にする組織音の連想装置であり、受け手側の感性次第でそのミニ・オデッセイは、聴き手にとっての自分や誰かの自叙伝にもなれば、「モリソン・ハイライト殺人事件」のディープで小ざっぱりした短編推理小説にも成りうる。そうでなければ、単なる道端のがらくたにもである。モーツァルトですら羨んだに違いない、ジェフ・レイブスの祈祷ピアノの流麗で官能的なフレージングと音色とが、限定的な言及しか遂行しない歌手モリソンの無尽蔵の喉に、まったく完結し独立した潤滑と超越とを与える。聴き終わる頃に聴き手は「このピアノ、いつかどこかで聞いた覚えがある」と感じる。少しあとになってわかるのだ。その場所が胎内を意味していたと。

このアルバムでは、歌詞は「言葉」として流れない。どんな種類のポップ作品にも言えることだけれども、歌詞は中身を知っていて曲を聴いたほうが、その音楽全体の理解の助けにはなるのだが、『VEEDON FLEECE』では別に、特に歌詞とにらめっこする必要はない。この異常に、奇異に張りつめた音楽の中で本当に必要な言葉はおそらく、曲の各々のタイトルだけである。「LINDEN ARDEN STOLE THE HIGHLIGHTS」「FAIR PLAY」「COUNTRY FAIR」「COME HERE MY LOVE」「BULBS」…。そしてアルバムの真ん中に位置する<YOU DON'T PULL NO PUNCHES, BUT YOU DON'T PUSH THE RIVER>。その8分50秒の探求と抹消、強迫と離脱、幻惑と幻影が挑み、迷い込む、モリソンの何かに憑りつかれた詠唱と渇きを訴える管弦楽との深淵の迷宮が、このひときわ特異な時代錯誤アルバムを、さらに特別で希少な、取り替えのきかないものにし、モリソンの放つ言葉の洪水を秘中の呪文、禁断のスペルへと醸成していく。

その長く、入りくねった歌詞が「言葉」として流れないのなら、それはどのように流れているのか。「音」「音節」としてである。【作詞のときに一度言葉を揃え、まとめたら、そのあとすぐに解放するんだ。だから歌ってるときには、それはもう「歌詞」じゃない。意味ある音、意味のない音、シラブルなんだ】。モリソンのそのシラブルは『VEEDON FLEECE』では無意味どころではない。<YOU DON'T PULL NO PUNCHES, BUT YOU DON'T PUSH THE RIVER>では、意味があるどころではない。そのシラブルが次々にサウンド上に置いていく呪文の迷路は、果てしないと言ってもいいほどだ。この曲の8分50秒は、8時間50分も続くものに思える。日本国内のモリソン関係のファンサイトやブログに、この曲の直訳調の和訳が掲載されているものがあるけれども、タイトルを文字通りに「お前は一切、手加減もしなければ、川の流れを急き立てもしない」と訳してもしょうがない。美的に無意味なのだ。この曲の、『VEEDON FLEECE』の、それにモリソンのこれといった重要な音楽では、言葉の一次的な読み取りは無用であり、字面的・表面的和訳は役に立たないどころか、逆に彼の作品の障害物、魔除けに、消臭殺菌剤になってしまいかねない。

<YOU DON'T PULL NO PUNCHES, BUT YOU DON'T PUSH THE RIVER>の全歌詞の意味と、そのタイトルの意味を、アメリカの音楽ジャーナリズムにいる元同僚の友人に昔たずねたことがあったが、「そのままで、今すでに確立してる慣用句的な意味を持つものじゃない。彼の場合特に『上等で複雑怪奇な言葉遊び』って感じが強いしね」と両手を開いて、おどけるように笑っていた。モリソンの隣国アイルランド出身の作家ジェイムズ・ジョイス(JAMES JOYCE) の訳者泣かせの超難解小説『FINNEGANS WAKE』(邦訳『フィネガンズ・ウェイク』) が、モリソン・シラブルに関してのその場での共通指摘・共通言及になったのだが、その彼の言っていた「遊び」「上等」「複雑怪奇」を念頭に置いたものでない限り、字面上の逐語和訳はしっくりこない。この耳で聴く天変地異、音になった森羅万象の謎は、おそらくこの先、どんな鋭敏なファンや研究者にも解けないのではないかと思う。そもそも『VEEDON FLEECE』の「VEEDON」が何なのかさえ、誰にも分からない。当のモリソン本人にもだ。「いま話しているのは / 真の魂を宿す人たちのこと / リアルのこと」。VEEDON FLEECEとは、巷間言われているような「黄金の羊毛」などではない。

物を文字を、像をじっと見ているうち、やがてその見ている対象物が突然一切の意味を失い、今自分の目にしているものを「脳がどう記憶していたのか」を再想起できなくなる突発的、一時的な視覚・感覚・認識障害であるゲシュタルト崩壊。現在に至るまでそのメカニズムが解明されていない、そのゲシュタルト崩壊に触発されて出来上がったといわれる<YOU DON'T PULL NO PUNCHES, BUT YOU DON'T PUSH THE RIVER>が没入する言語の呪文とケルト、アイリッシュ、主流混濁サウンドの迷宮。それは『VEEDON FLEECE』の残りの9つの小呪文・副迷路とともに、聴き手が日々送っている現代生活、および社会生活の「連続」を、プツンと途絶えさせる。その連続を崩壊させるのだ。本来つながっているのが当然であるその連続性を切断することによって、ついさっきまでその連続が有したはずの価値や意義、社会性、重要性、あるいは非社会性や即席性を聴き手の眼前に露わにし、聴き手を立ち止まらせ、考えさせ、そのあとで一切何事もなかったかのように、その聴き手をまた元の場所に返すふりをしながら、しかし実際には、だからこそモリソンは何もしない。そしてゲシュタルト崩壊がそうであるように、この曲も自らの全体から全体性が、かたまりが、意味記号が消える。瞬間と部分、断片と現在の連続だけが次々とRIVERのように流れては聴こえ、聴こえては流れていくのだ。

人間は、自分のことを自分で思っているほど十分に理解し、把握しているわけではない。現実生活の与える反復的で凡庸な時間設計上では、僕らはさほどその事を気にしないでもやっていけるし、たまの個人的、内省的思索時間でさえも、自分から率先して自己の理解を深めようなどとはしないものだ。それは怠惰なのではなくて、ごく自然な傾向なのだともいえる。現代の現実というものは、常にそれなりの正当性でもって、人間がその人間自身に深く向き合い、コミットするのを拒み続ける。今現在、世の中を世の中として機能させているシステム ―― 「文明と消費と生存と関係性とのシステムそれ自身」が最初からそうさせていないからである。したがってもし、そのシステム内の個人が独力で己の魂の内部に深入りしようとすれば、システムの運用上の実際的束縛や制約から出来る限り遠くに逃亡し、自分をいったん自分自身から隔離・隠匿する必要が生じることになるのだが、モリソンの音楽、とりわけこの『VEEDON FLEECE』の陰影音楽、逸脱音楽はその逃亡と隠匿、熟考のための終わりのない伴奏にうってつけであり、かつその音楽は停止と遮断を奨励する一方で、システムへの復帰をまったく手助けはしない。いったん脱出したら、帰りは常に、独力で戻らなければならないのだ。

『VEEDON FLEECE』の贅沢極まる固有のテンションと融合が生み出すつかの間の内的トリップは、そのアルバムを聴き終わったリスナーに向けて、最後にもうひとつの命題を書置きして消える。その熟考と停止は、いったい何かの役に立つのか。<YOU DON'T PULL NO PUNCHES, BUT YOU DON'T PUSH THE RIVER>の超催眠的呪縛を、決して解けないでくれと願いながら、聴き手は今夜も、その曲をリピートする。そして何度目かの再生時に思う。悟る。知らされる。それはこの曲と『VEEDON FLEECE』が規定している「いつか、どこかの時と場所」でなく、いま自分が息をして生きている「ここ」―― この時代のその日常の、この場所の、その人生の現在時間にこそ役立つもの、役立てるべき何物かに転じ得るという第6の直観をである。モリソンの呪文と迷宮はいつかどこかの時と場所ではなく、その音楽が日々再生されている我々の、この現代生活自身を奇妙に、裏返しに反映し続ける。

中野利樹 (TOSH NAKANO)♠

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