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superfly
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出典は不明だが「歌は世に連れ、世は歌に連れ」という言葉がある。はたして、そうだろうか。現代に当てはめてみると、確かに歌は世に連れるが、世は、歌に連れない。最近、山下達郎が全く同じことを言ったそうだが、そもそも世の中はもはや、何事にも連れないのではないだろうか。「まわるまわるよ / 時代はまわる / 喜び悲しみ / 繰り返し」と歌った中島みゆきは、どこに行ったのだろう。いや、彼女に責任はない。いまや何人も、大統領でさえも「時代を作る」ということは出来ないからだ。その暴走に歯止めをかけるくらいしか、バラク・オバマとその類似品に出来ることはなくなってきている。時代があまりにも巨大になり、概観不能になるにつれて、われわれ人間に出来る事は、テクノロジーの発達とは逆に、どんどん少なくなりつつあるのではないか。その要因の上位は意外だが言葉が、言語の持つ力が、かなりのスピードで脆く衰弱してきていることではないかと思う。ある種の通信先進技術の代償、その利便性の報いだろうか。

「CHANGE」と叫ぶことの先に、新しい未知の、豊かな未来があるなどとは、今はもう誰にも言い切れない。先日日本が通年単位で初めてGDPで中国に抜かれて、世界第3位に下がったというニュースがあったが、その外電を待つまでもなく、キラキラすべすべした外観の内側で静かに確実に、この国は衰退・分断へと傾いている。共に世界にまったく先例のない、近代先進国家初の人口減少と超高齢化社会への移行を背景に、長く続いた戦後日本の最初の壮年期は、間もなく終わりを迎える。経済だけの話ではない。アニメとコスプレ、コンクールと指揮者のクラシック音楽以外には国境を越えることのない自国のポピュラー文化 (アジアへの進出は除く)。映画は時折「たまにはアジアにくれてやれ」とばかりにお慰みな賞を頂戴することがあるが、音楽はというと、そのお慰みさえめったにない。別に全米のチャートだけがすべてではないが、ビートルズ登場前夜の1963年に坂本九が「上を向いて歩こう」(外国タイトル「SUKIYAKI」) で全米第1位を取って以来ほぼ半世紀、日本のポップが本当に世界に出ていくという事態は、今もって実現していない。

さしあたって3つの理由がある。1つは英語ができないこと。音楽そのものは日本語でも構わないかもしれないが、各種のプロモーション展開上、制約をきたす。2つめは契約上に生じる販売網の弱さ。この問題には宇多田ヒカルが敢然と (英語力とともに) 挑んだが、アメリカEMIは、結局彼女を全米に広く知らしめるだけの十分な宣伝活動はしなかった。頭の切れる彼女は、捲土重来のために多くの事をそこから学んだはずだ。そして3つめ、おそらくこれが一番大きな、かつ根本的な障害である。肝心の音楽自体が、世界に広がるという多言語性を、初めから持ち合わせていないのだ。

日本のヒット音楽、消費音楽のほとんどが国内向けオンリー、もしくはアジア止まりであり、あらかじめそういう仕様で作られているのだ。かのケータイ端末と同じである。いわば「ガラパゴス音楽」。AKB48はそのガラパゴスの典型であり、一方K-POPの少女時代、KARA、BROWN EYED GIRLSは、ユニヴァーサル仕様寄りである。AKBはアメリカに行った場合、アニメやコスプレのフェスに集まるオタク・ファン層には歓迎されるだろうが、グラミーの舞台には立てない。少女時代やKARAは、たとえその舞台で口パクしたとしても、そのヒップ・ダンスと長い脚の踏み降ろしバーレスク・ステップで、観客を魅了するチャンスがある (もっとも実際には、緊張でそのヒップと脚はガクガクかもしれないが)。彼女たちは韓国語や覚えたての健気な日本語で歌いながらも、その結果はある程度に多言語的であり、K-POPのダンスはあくまでもDANCEであるのに対して、AKBのダンスは振付け、お遊戯といったところだ。

要はそこに肉体が、言語があるかどうかである。日本の場合、そこにまずあるのは肉体や言語でなく、統計と容認である。日本の音楽はMUSICである以前に「芸能」なのであり、それを了解するすべを持たない、日本国内に住んでいない外国の人々には、その音楽なりアーティストなりは中途半端な、曖昧な存在でしかない。日本のポップは、常に「二重構造」の上に成り立っているのだ。その芸能と音楽との二段構えが、後者の国際化、多言語化を大きく阻んでいる。2010年の現在もである。

ところがである。その二重構造を初めから持たない音楽が、2007年以降、突如現れた。マイナーの、知っている人だけが知っている小規模音楽ではなく、オリコンの首位を走った、れっきとしたヒット音楽である。151センチの26歳、SUPERFLYこと越智志帆。これまでに3枚のNO.1アルバムを出しているが、細かな曲ごとの出来不出来はあるものの、その3枚のずば抜けて活気あるアルバムが満たす時間には、芸能の持つ浅薄さや稚拙さ、あるいは停滞らしきものが見られない。その音楽には、何も起きていない瞬間というものがほとんどないのだ。デビュー盤1曲目の<HI-FIVE>が鳴ったとたん、芸能の2文字は吹っ飛ぶ。音楽の2文字が取って代わる。奔放、天性の2文字も加わる。そして彼女が声を発したとたん、その曲は何語で歌われようと、ほとんどいつも、多言語的になる。「届くべき言葉」になるのだ。これは控えめながら、ものすごいことである。

SUPERFLYの音楽の中では、ありとあらゆるフレーズ、歌い回し、ヴォーカル・コントロールが意志を放つ。最初の意思を維持し通す。「この人の歌、すごい!」という驚きのさらにもうひとつ先に、越智志帆のシャウトは、ウィスパーは向かう。まるでその声だけに見えている場所、その声だけが感じている時間へと飛び込もうとしているかのようにである。その場所、その時間とは「時代」である。今日ぼくらが直面している完全無欠の、何事にもたじろがない冷徹・無慈悲な時代でなく、「歌に連れる世」としての時代だ。しかしSUPERFLYはその時代を、お決まりの過ぎ去った過去にではなく、いま現在に、それにごく近い未来の中に見出そうとしている。それがこの表面上レトロな音楽が、レトロどころではない強烈な、圧倒的な音楽的力を、魅力をもっている理由である。

彼女のお気に入りの洋楽カヴァー作を聴くと、その歌唱から類型的な懐メロ感覚や、通りいっぺんの懐古的なものが、きれいに消えているのが聴こえる。ジャニス・ジョプリンの<PIECE OF MY HEART>もジム・クロウチの<BAD, BAD LEROY BROWN>も、2010年のポップ、あるいは2020年の音楽なのだ。SUPERFLYが規定するその時代では、古いとか新しい、ウケるウケないといった概念は些細な、二次的なものに過ぎない。主眼ではないのだ。それは芸能と違い、多言語な、多様な時間を許容する。物事を渇望し、その渇望を自らすすんで信頼、追求することによって、その経験を許容から没頭に、没頭から実現可能な現実に変える。

彼女にとって1つの音から別の音への移動とは、つねに一か八かの跳躍、冒険であり、それは同時に、聴感上で1つの生から別の生へと踏み出すことを意味する。だからその冒険には、成功するかどうかの保証は全くない。ないからこそ、その声はその冒険に、その跳躍に見合った、ふさわしい躍動を求められる。その躍動が伝える鼓動=ヴァイブレーションが、1つの生しか生きられないぼくらに「すごい!」と思わせる。その比類なき躍動はリズムやビートのみならず、言葉や言語にまで及ぶ。ポップ・ミュージックという音楽形式は最上の場合、そこに付いている歌詞を単なる歌詞以上のものに変えてしまうことがあるが、それはある場合には自分の日々の拠りどころに、日常の生活における現実のささやかな座右の銘に、生きて呼吸を続ける、人生の小格言に変わりうる。「今日も / 明日も / 愛と感謝に生きよう / 大切なものは / 見失いがちだけれど」。<愛と感謝>の中で彼女がそう歌うと、その古臭い、死に絶えた、今では気恥ずかしいとさえ言える言葉は、さっと息を吹き返す。すっくと立ち上がる。また動き出すのだ。言葉の、言語の本来の力、パワーをそこで再びこちらに問い直し、新しい疑問を同時に投げかけるかのようにである。

あらゆることが常にその場限りに、近視眼的に動き、あらゆることがそうそう他人に構っていられないぼくらの摩耗した、歪んだ毎日の中で死んでいったそれらの言葉、現在もう有効ではないそれらの言葉が、1人の小柄で華奢なボヘミアン=フラワー・ルックのすてきな女性によって、ただその「すごい!」声だけによって劇的に、てらいなど持たないヴォーカル・スマイルとともに生き返っていくプロセス ――、それがSUPERFLYの、越智志帆の最上の音楽である。彼女の登場が歌に連れないこの時代だったことは、皮肉であると同時に新しい、まぶしく輝く希望でもあるのだ。

「街全体が / 寝ぼけてる今 / ブルーズこそが / マニフェスト」。その街が寝ぼけているのは、そこに集い、住まう我々自身が寝ぼけているからである。時代を担っていると自負しながら、あたかもそれを自分の手で作っているふりをしながら、その時代にあぐらをかかせ、無条件に無尽蔵な力を与え、楽しげな、有頂天な素振りをすることによって、その無尽蔵からのおこぼれにあずかる ――、それは時代を担うことではなく、時代を作ることではなく、そこに隷属すること、その時代の言うがままになることに他ならない。「自分で動いている」という自信と確信が「実は何かによって、単に動かされているだけなのでは」という内省的疑念を一方的に抑え込む。現実生活上ではともかく、それは美的には芸能の精神である。それもおそらく、最悪の部類の芸能の精神だ。いずれにせよ芸術とは、あるいは生とは、本来まったく別なものである。

マニフェストはいまや自民党でも民主党でもなく僕ら自身の手に、それにSUPERFLYの手にある。おこぼれに有り付ける人間は生き生きしており、そうでない者は物の数に入らない世の中、それがこの世の中、この時代であるとSUPERFLYはフレーズを重ねるごとに明らかにする。肝心なのはその明らかにする様が、これまでのほぼどんな優れた日本のポップ・ロックにも劣らず、勇気と信条、愛情と継続、大胆と細部とに満ちているということだ。そこに、懐古のように見える先見が最後に加わる。SUPERFLYの音楽が究極に目指すのは、そのおこぼれを無意味にすること、ただその音楽の力によって、物の数を無関係なものにしていくことのように思える。

ジャニス・ジョプリンの<MOVE OVER>が彼女自身の人生を決定づけたように、彼女自身の<誕生>が<AIN'T NO CRYBABY>が、<WILDFLOWER><春のまぼろし><ALRIGHT!!>が、それを聴く人たちの明日を変えるかもしれない。いっぺんにでなく、少しずつ。それを聴くたびに。今日も明日も、その次の日も。「大地を踏みしめて / ともに歩こう」。人は、どんな時代にも1人では生きられない。どこかに、何かに、あるいは場合によっては誰かに属していなければ、その個人は十分に生きていると感じることはできない。たとえそれが不本意な、まやかしの、仮りそめの所属であってもである。ほかのどんな時代にも増して、この時代においては孤立は、疎外は死なのだ。

何かが大きく、予想外な形で変わらなければ、日々少しずつ、確かに弱っていくであろう日本。そこに生きる1億ほどのぼくら。同じ人生ならば何もしないより、たとえ少しの事でも出来ることから始めるんだとSUPERFLYは歌う。「その場しのぎの / 満足感や悦びが / 知らず知らずのうちに / 自分の首を / 締め付けるんだ」。BE HAPPY AND SMILE。咲き誇れWILDFLOWER。おこぼれがなくとも逞しく育つ野草のように。バラとチューリップの隣りでも、枯れ木の大地でも。その野草は、この弱りゆく国の日々愉しみを探し求める1億の集まりの中で、越智志帆がライヴで歌うニール・ヤングの<HEART OF GOLD>を聴いている。曲の終わりに、聴衆の拍手にまぎれて、彼女がぼそっと告げる。「ありがとうございまっす」。ありがとう、SUPERFLY。

ぼくらが明日話すべき言葉、それはこの時代の、必ずしもど真ん中ではないどこかに、だまし絵のように分かりにくく散らばっているが、2010年の暮れ現在、そのうちの1つが、このSUPERFLYの音楽であることは間違いない。その、時代と言葉とを熱く暖かく、まっすぐに見つめる多言語ヴォーカルとサウンドとがそう言っている。今日、明日、その次も。歌に連れる世は、すぐそこに訪れているのかもしれない。


追記:
この批評を書いたのは2010年暮れ、彼女の素晴らしい<WILDFLOWER>がチャートの上位を席巻していた直後で、これ以降の彼女の作品はどれも「人々がSUPERFLYの音楽を判断する元となった美的基準」に達していない。越智志帆にとっての「先生」こと、メイン・コンポーザー兼アレンジャー多保孝一の指向性の分散によるコミットの淡白化と、メイン・プロデューサー蔦谷好位置の多忙によるコミットの形骸化が、<WILDFLOWER>以降のSUPERFLY作品を、掛け値なしの「ROCK」のプレシャスな世界語の響きから、相川七瀬や久宝留理子タイプの「J-POP」の平板な日本語型響きに変えてしまった感は否めない。越智志帆自身、それ以前には実施していなかったボイス・トレーニングを導入したことも、彼女が元来自然に兼ね備えていた、群を抜く生来の声のギフトを、結果として人為的な形で変質させたとも言えるかもしれない。彼女にはおそらく、よくある一般的なボイス・トレーニングは必要なかった。しかし、そうだったとしても彼女の声には、その声のギフトには、依然としてまだやるべきことが、伝え届けるべき事が数多くある。そしてSUPERFLYは、近いうちにそれをまた、きっと見つけ出す。そう思う。

中野利樹 (TOSH NAKANO)🍀

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