REVIEWS

ringo
Bookmark and Share

椎名林檎の<幸福論>のカプリング曲<すべりだい>は、いま聴いてもデビュー・シングルではなく、彼女の最後のシングルのように聞こえる。この音楽には依然として、ひとりの「欠落人間」(デビュー・アルバム『無罪モラトリアム』のスリーヴより) の活動歴の始まりと終わりが、同時に聴き取れるのだ。それはいまだに、出発したきり二度と同じ形で戻ってくることのない音楽に思える。

この曲での椎名林檎の歌唱は、概して静かである。そこには<本能>以後のシングルや『勝訴ストリップ』などにみられる、その後すっかり彼女のトレードマークになった過度の「攻撃的ラ行」や意図的な声の変形、加工はない。ただし、違いはある。<本能>や他のいくつかの代表曲は、主に自らの才能を力にして進んでいく。それらの曲では、溢れ出る才能が斬れすぎて時々進み過ぎ、しばしば聴く者を置き去りにして、視界から消える。

それらの曲の声は、聴く者を没頭させることによって進む。だからこちらはヘトヘトになる。神経にこたえるのだ。そこまで消耗しても聴くのをやめる気にさせない、という所が彼女の特異点であり続けてきた。"椎名林檎" は今もなお一種のドラッグであり、屈服が快感なのだ。リスナーは彼女の音楽で、決して満腹にならない。嫉妬と羨望を底なしに食い続けるからである。彼女自身のパーソナリティーがそう簡単に片のつくものではないのと同様、彼女の音楽は、そのうち食いつぶせるという類のものではないのにだ。それに対して<すべりだい>では、僕らは始めから、それを食いつぶす必要はない。そんなにおいしそうには見えないからである。おそらく、機能に違いがある。<すべりだい>のサウンドは、溢れ出すというより染み込む。魅了するというより黙示する。内側を見つめ、それから外側を見る。この場合彼女にとって、そうする必要があるからである。

椎名林檎としての彼女のこれまでのキャリアは、自分の脆さや危うさ、愚鈍さや異質性から自分自身を防御するため世の中に対し攻撃的にならざるを得ない女性を、むきだしの本来の自分とは反対に、恋人の姿をした他者に対して逆説的にあざとく、あえて強靭に、SEX中毒的に、そして盲目的に振舞わざるを得ない、激しく自己浪費する女性の物語を語るものであったと言えるかもしれない。けれどもこの曲の声は、数ある彼女の他のどの声とも微妙に、本質的に違っているように思える。その声は、溢れ出る才能ではなく、自らの苦悩を力にして進む。その声自らが没頭することによって進む。

<すべりだい>は、聴き手が何となくその曲に持ち込んでいる期待を微妙にはぐらかすコードで始まる。何度聴いても、その都度記憶がわずかに脇へそらされてしまう、そんな感じがする。この曲の重要なサウンド上の要素であるウッド・ベースのようなベース・ギターが、何かを警告するかのようにそのコードを引っ掻き、アクースティック・ギターがコードの周りをゆるりと回る。混沌が漠然と存在している。しばらく聴いていくと、1つの歌唱と次の歌唱との間にわずかなズレ、溝のようなもの、間合いがあることに気がつく。技術的な問題ではない。それは自分以外に聴く人間がいるということをあまり想定していない声、自分自身がそのヴォーカルの最初の、あるいは唯一の聴き手になっているかのような声である。プロ歌手としての声というよりも、単に一女性の声に近いのだ。この音楽には芸名の椎名林檎と本名の椎名裕美子、それに<すべりだい>の「あたし」の3人が同時に点在している。ズレの原因は、その3者間での感情の吐露の速度と分量が、不揃いで不安定なためだ。

イントロの混沌は正しかった。しかし、ズレながらもその声に不純物はない。そこには構えや計算が入る余地がないように思える。その声は自分のブレスを聞いているのだが、それは意識過剰ということではなく、歌に没入している間、自分がちゃんと呼吸が出来ているかどうかを確認するためである。その声は聴く者のために存在しているという感じではない。たとえ食いつぶそうにも、元々それは、口に入れること自体が不適当なものだったのかもしれない。歌詞の主題は「只の刹那に変わった」「あなた」と「あたし」で、2人は多分、思い出の公園のベンチに、只の刹那として腰掛けている。「あたし」が物思いにふける。ふたつ前の秋を思い出す。「今のあたしだったらあなたと / すべらずに済むような / 気がする」。少し手前のところで、まさに目を醒まさせるような扇情的ギター・ソロが、降って沸いたかのような自発的ギター・ソロが「あたし」のいままでを吹き飛ばし、それ以降の曲の様相を書き換える。事態が変わり出す。

それは椎名林檎が弾いたソロではないけれども、彼女が求めた通りのソロであり、「あたし」が弾かせているソロでもある。「あなた」はどこかへいってしまう。ソロの入り口の手前でバンドが何かを導くようにタイムマシンみたいな音を出し、出てくるときには、景色は一変する。吹き飛ばされた破片が曲の四方八方に飛び散り、音量は大きくなり、あのズレは消え去り、3者は1つになる。すべてがぴったりと合わさっている。すべてが、より意志を放ち始める。すべてが、偶然ではないと思える。

それ以降、「あたし」が歌っているのはもはや「あなたの8度7分の声」や「お得意の嘘や詮索ごっこ」のことではなくなる。最後のリフレインの数十秒は、その声が何かに懸命に追いつこうとしているかのようだ。その声が追いつけるだけの物事の限界、その限界のひとつかみが更新されていくのが聴こえる。その更新は美しく崩れ、崩れながらもなお美しい。それは椎名林檎という存在、椎名林檎という刹那を要約したもののように鳴り響く。彼女がこの音楽の中で自分の創造した過去と未来に手を伸ばし、運命を見渡し、その行方をすでに悟ったかのように歌うのを聴いていると、その美しさゆえに、聴く者は実際に、真剣に彼女を愛してしまいかねない。その激烈さゆえに、走って行って、彼女を刺してしまいかねない。

「記憶が / 薄れるのを / 待っている」。それは聴く者の記憶を揺さぶる。超えさせる。それは商品に過ぎない。僕らはその購買者に過ぎないのだろうか。「アアゥ、ォアアアア ―――― 」。その声には、本当の終わりというものはない。それにおそらく、これ以外に彼女に歌うべき音は残されてはいなかった。その音は、彼女の活動歴がいつか幕を閉じる時に、まるで突然、急に思い出したかのようにその時再び耳にする音のようなものだ。椎名林檎は、自分のデビュー作でいきなり自分自身を凌いだ。出発の時点において、彼女は自分自身の墓碑銘をこっそり彫ったのである。

今日機能している大半のポップの親切心とは対照的に、<すべりだい>は最後まで何も説明はしない。それは寡黙なまま聴く者に、今生きているのとは違うもう1つの生の可能性をただ伝えるだけであり、リスナーは自分がいま現にこうであると信じているのとは違うもう1人の自分の在りかを、その音の可能性の中に、ただ感じ取るだけである。しかし、それがポップ・ミュージックのすべてなのだ。<すべりだい>は、そのことを聴く者の心に強く刻ませる。何年経っても、墓碑銘のように。

中野利樹 (TOSH NAKANO)♠

Terms of Use, Copyright © 2017 The Art of Listening. All Rights Reserved.








▲ back to TOP ▲
inserted by FC2 system