先日古いVHSの録画テープを見ていて、ある文句が心に引っかかった。「他人の思う私は、私ではない」。それは電話通信会社IDOのauへの社名変更の告知CMで、宇多田ヒカルの<Fly Me to the Moon>に合わせて10代の一般の男女1人ずつが映し出される合間に表れるコピーだったのだが、注意を引かれたのは、その言葉の力がまったく理解できなかったからだ。
もう1度よく味わってみよう ―――
それは秘密のキーワードだとでも言うのだろうか。しかし最後まで引っかかったのは、別にこのCMの正当性とかではなく、「その1行が言い損ねたものが何であったのか」である。ちょうどその2日前に、アラン・モイル監督の1990年ハイスクール映画『Pump Up the Volume』(『今夜はトーク・ハード』、DVD国内未発売) を観たところだった。
クリスチャン・スレイター(Christian Slater) 扮する進学校の高校生マーク・ハンターが、自宅の地下室に秘密開設した海賊FM局で、名物DJ "Happy Harry Hard-On" (ビンビン野郎ハリー) という別人格のフィルターを通して、同じ学校の不特定の生徒たちに語りかける ―― 電話、手紙、音楽、それに自分の声でもって。全米随一の平均点を誇る彼らの高校は、校長の強権と不正によって歪められた、虚飾の名門校である。
彼は彼女に「所詮」と言いたいのだろうか。逆である。本当の自分は君が思ってくれているような魅力的な、上等な人間じゃないんだ、彼はそう言いたいのだ。今の話はこっちの作り話ではなく、ボストン(Boston) の1978年のシングル<A Man I'll Never Be>(「遥かなる想い」) からのものである。
「何 ? Boston ?」と友達が言った。知らないのではなくて、あきれたという意味だ。「子供だましじゃん。ガキの頃は結構聴いたけど」。彼の言う通りだった。実際Bostonの音楽のほとんどが本質的に薄っぺらく、多重録音で水増ししたギターとコーラスとでその薄っぺらさを補強しており、見かけの派手さ、キャッチーさの分量に反比例するように、生な感情の発露はそこにはなかった。彼らの音楽は、表面がそのすべてだったからだ。
聴く者にはサウンドの行間を読む必要はなく、彼らの音楽を支えたのは、圧倒的に10代のファンだったと言ってよかった。76年の出世作<More Than a Feeling>や2年後の有名な大ヒット<Don't Look Back>では、それがうまくプラスに働いた。Bostonのサウンドにはある種のすがすがしさ、さわやかさがあったが、それは10代特有のそれであったかもしれない。友達が「子供だまし」と言ったときに意味していたのは、多分そこだ。Bostonの音は、コーラをぐっと飲んだときに感じるさわやかさに似ていた。ただしその代わりに、ビールのコクや苦味、酔いはなかったのだった。
<A Man I'll Never Be>は、<Don't Look Back>の世界的ヒットの後を追って出された。バラッドであったこと、短く編集しないで6分超のまま発売したことが影響してか、30位程度のチャート・アクションにとどまり、当時10代だったファンが20代、30代になるにつれ、ラジオからも、彼らの記憶からも消えていった。
それでどうなったわけでもなかった。半ば忘れ去られた、子供だましのその使い捨て曲が、思いがけずここで自分をまっぷたつにした。『Pump Up the Volume』を観ていた間、何度もこの曲が頭の中に現れ、そこに引き戻されたからだ。
少年にとって、そこにこそ彼女がいる。生身の現実の自分がいる。デルプのこの曲でのヴォーカルは、『Pump Up the Volume』最終幕での丘の上からのハリーの感動的な語りと同様に、僕らの心の中のあらゆる憧れと諦めの真上に自動的に焼き付けられた、共通の10代のネガだった。その演説と歌唱とを僕らは今、ただ大人の顔をして笑えるだろうか。
そのとき初めて、聴く者は我にかえる。もう1人の自分から、現実の自分に切り換わる。知らず知らずのうちに現実の自分が目をつぶったもの、捨て去ってしまったものの事に思いを巡らせる。あの夜ハリーの言葉に真剣に耳を傾けた多くの素晴らしき高校生たち、この映画を観た観客の何人かと同じように。TALK HARD ! (熱く語れ !)、SO BE IT ! (それでいいんだ !) とハリーは言う。それはあの日あの時、僕らの中のもう1人の自分が言いたかったこと、誰かに言ってもらいたかったことと同じである。
明日の可能性は果てしなく、昨日の痛みは人知れない。『Pump Up the Volume』 と<A Man I'll Never Be>の2つの化体作用は、人によってはあの電話会社のコピーを変えさせることになるだろう: