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先日古いVHSの録画テープを見ていて、ある文句が心に引っかかった。「他人の思う私は、私ではない」。それは電話通信会社IDOのauへの社名変更の告知CMで、宇多田ヒカルの<FLY ME TO THE MOON>に合わせて10代の一般の男女1人ずつが映し出される合間に表れるコピーだったのだが、注意を引かれたのは、その言葉の力がまったく理解できなかったからだ。
もう1度よく味わってみよう ――― 

他人の思う私は、私ではない。

威圧的だ。なんだか叱られているような気がする。その広告が言わんとしていることは「本当の私を知っているのは私だけ」であるということである。「私」と「私じゃない他人」とがいて、「私」とその「他人」とは違うのだ、ということである。なるほど。それはそうだろう。けれどもここでの「私」は、どういうわけか「他人」よりも上に位置している。そうであるために、いつも「私」より下にいる「他人」には、本当の私の何たるかなど分かるはずがない、そういうことになってしまっている。さらにその頼もしい唯我論宣言が気持ちをイライラさせるのは、このコピーの核心となる単語が、今言った「私」や「他人」や「ない」ではないからだ。もちろん「思う」でもない。その核心は、表示されていない言葉である。この文全体の前につく言葉 ―― 所詮。

それは秘密のキーワードだとでも言うのだろうか。しかし最後まで引っかかったのは、別にこのCMの正当性とかではなく、「その1行が言い損ねたものが何であったのか」である。ちょうどその2日前に、アラン・モイルの1990年のハイスクール映画『PUMP UP THE VOLUME』(『今夜はトーク・ハード』、DVD日本国内未発売) を観たところだった。クリスチャン・スレイター(CHRISTIAN SLATER) 扮する進学校の高校生マーク・ハンターが、自宅の地下室に秘密開設した海賊FM局で、名物DJ "HAPPY HARRY HARD-ON" (ビンビン野郎ハリー) という別人格のフィルターを通して、同じ学校の不特定の生徒たちに語りかける ―― 電話、手紙、音楽、それに自分の声でもって。全米随一の平均点を誇る彼らの高校は、校長の強権と不正によって歪められた、虚飾の名門校である。

毎夜10時にハリーの放送は始まった。恋愛、友情、死、同性愛、現状への不満、将来への不安、内部告発 …。放送は次第に、ハリー自身にも制御出来ないほどの反響と拡がり、影響力を持っていく。転校してきた彼は (すなわちマークは) 、高校内では全くうだつの上がらない内気な青年で、友達といえばせいぜい、人の居ない通路や階段で読みふけるペーパーバックぐらいのものである。マークとハリーとは、まるで正反対なのだ。ヴォイス・チェンジャーで声を低く太くして放送し、決して正体を明かさないハリーは、1度番組内で、そんな自分を自分自身で「インチキ」だとあざけってみせる。そこに「他人の思う私は、私ではない」の重みがのしかかる。複雑さと性急さが、そこにはあるからだ。しかし、このニセモノっぽい外見をした低予算映画が、最後に正真正銘の本物の映画として観る者を感動させるのは、そこに一切の「所詮」がないからである。

物語がフィナーレに向かってにじり寄り始める頃、ハリーは自分の転機を迎える。最初はただのウサ晴らしとして、それにまだ見ぬ自分自身に語りかけるために始めた小さな行為が、彼にノーラという素敵な理解者であるガールフレンドを引き合わせ、マークは、もう自分とハリーとは別個に存在する必要はないのだと悟る : 君の思う私は、私の思う私とは違うかもしれない。しかしおそらく、それでいいのだ。なぜなら、私の思う私が「本当の私」であるのかどうかは、私の中に「もう1人の私」がいると気づくこと、そのもう1人の自分と向き合うことほどには重要でないからである。おそらくそれこそが10代の複雑さ、性急さなのであり、人生のそれなのだろう。この自分さがしの物語を受け取る10代の観客にとって、かつて10代だったことのある観客にとってである。僕らの心の中にあるもう1人の自分、それがもし「本当の私」なのだとすれば、それは自分史のどこかにかつて実在した、過去の現実の自分ではない。それよりも、それはあの日あの時、そこに存在しているべきだったのに実際にはそうでなかった自分、そうならなかった自分、想像上のこうあるべきだった自分なのだ。


自分は彼女を見ている。彼女も自分を見ている。自分は彼女を理解している。彼女も自分を理解している。なのに時々ふと思う。彼女が実際に見ているのは「本当の自分」じゃないのではないか。本当の僕は、いま君が見ている僕じゃない。彼女にそのことを伝えたい。出来ない。彼女を失うことの恐怖がそうさせない。では、どうしたらいい。

彼は彼女に「所詮」と言いたいのだろうか。逆である。本当の自分は君が思ってくれているような魅力的な、上等な人間じゃないんだ、彼はそう言いたいのだ。今の話はこっちの作り話ではなく、ボストン(BOSTON) の78年のシングル<A MAN I'LL NEVER BE>(「遥かなる想い」) からのものである。「何 ? BOSTON ?」と友達が言った。知らないのではなくて、あきれたという意味だ。「子供だましじゃん。ガキの頃は結構聴いたけど」。彼の言う通りだった。実際BOSTONの音楽のほとんどが本質的に薄っぺらく、多重録音で水増ししたギターとコーラスとでその薄っぺらさを補強しており、見かけの派手さ、キャッチーさの分量に反比例するように、生な感情の発露はそこにはなかった。彼らの音楽は、表面がそのすべてだったからだ。

聴く者にはサウンドの行間を読む必要はなく、彼らの音楽を支えたのは、圧倒的に10代のファンだったと言ってよかった。76年の出世作<MORE THAN A FEELING>や2年後の有名な大ヒット<DON'T LOOK BACK>では、それがうまくプラスに働いた。BOSTONのサウンドにはある種のすがすがしさ、さわやかさがあったが、それは10代特有のそれであったかもしれない。友達が「子供だまし」と言ったときに意味していたのは、多分そこだ。BOSTONの音は、コーラをぐっと飲んだときに感じるさわやかさに似ていた。ただしその代わりに、ビールのコクや苦味、酔いはなかったのだった。

<A MAN I'LL NEVER BE>は、<DON'T LOOK BACK>の世界的ヒットの後を追って出された。バラッドであったこと、短く編集しないで6分超のまま発売したことが影響してか、30位程度のチャート・アクションにとどまり、当時10代だったファンが20代、30代になるにつれ、ラジオからも、彼らの記憶からも消えていった。それでどうなったわけでもなかった。半ば忘れ去られた、子供だましのその使い捨て曲が、思いがけずここで自分をまっぷたつにした。『PUMP UP THE VOLUME』を観ていた間、何度もこの曲が頭の中に現れ、そこに引き戻されたからだ。

それは何だか、この映画の聴こえざるサウンドトラックのように思えた。「目に映るものが / 物事のすべてだと / そう言ってしまうのは / 簡単さ」「毎日がつらいんだ / この夢の向こうへと / 逃げ込んでしまうことが」「君が僕を見るとき / 君は / 「決して僕が成りっこない僕」を / 見ている」。そう言ってヴォーカルのブラッド・デルプが、そのあとを、ギターのトム・ショルツに任せる。2コーラス目のあと、デルプの主張は行き場を失い、ショルツの長いギター・ソロを爆発させる。

それはまるで、来る日も来る日も、1人自分の部屋で必死に練習して初めて早弾きを覚えたギター少年が、自分の存在を肯定するため、彼女に「そうじゃないんだ」と分かってもらうために、残された最後の手段として差し出している音のように聴こえる。僕らが思い描く本当は存在しなかった想像上の自分 -こうあるべきだったもう1人の自分- が求める複雑さと性急さが、そのギター・ソロを前へ前へと駆り立て、クライマックスのところでそれはついに、曲自体の枠からはみ出ようとして叫ぶ。もがく。複雑さ、性急さとともに。そこにあるのは、さわやかさではない。すがすがしさではない。有り余る可能性が目の前に無限に広がっていながら、そのどれ1つとしてつかみ取ることのない10代、その10代の開かれた将来、閉ざされる葛藤。その葛藤がどれだけ抱えても抱え尽くすことはない、未決の多数のもどかしさ。肉体的苦痛を伴った現実の痛みが、そこにある。少年にはもう帰る場所がない。行く場所がない ―― そのギター・ソロが長い長い距離を越えて到達し、そのあとで切り開く、この新しい場所以外には。

少年にとって、そこにこそ彼女がいる。生身の現実の自分がいる。デルプのこの曲でのヴォーカルは、『PUMP UP THE VOLUME』最終幕での丘の上からのハリーの感動的な語りと同様に、僕らの心の中のあらゆる憧れと諦めの真上に自動的に焼き付けられた、共通の10代のネガだった。その演説と歌唱とを僕らは今、ただ大人の顔をして笑えるだろうか。BOSTONは子供だましを乗り越えた。そしてその活動歴の中でただ1度だけ、他のどのアーティストにも劣らない熱情とリアルさ、真剣さをもって、想像上の10代、現実の10代の痛みを捉えた。

<A MAN I'LL NEVER BE>は、少年が初めて飲んだビールの味だった。そのコク、苦味、酔いに、自分の味覚に自信はなかった。初めてだったからだ。けれどもその体験は、コーラを飲むよりもリアルだった。少年にとってそれは、コーラより遥かに価値のある、意味を持つ、大切な経験だったのだ。曲の最後のところでデルプは「この気持ちを / これ以上 / 隠しておけないんだ !」と叫ぶ。大聖堂のオルガンが鳴り響き、静寂が訪れる。ピアノがゆっくりとコードを運び、6分38秒の戯曲は終わる。オルゴールのねじが切れるように。そのオルゴールのふたを、静かに閉じるように。

そのとき初めて、聴く者は我にかえる。もう1人の自分から、現実の自分に切り換わる。知らず知らずのうちに現実の自分が目をつぶったもの、捨て去ってしまったものの事に思いを巡らせる。あの夜ハリーの言葉に真剣に耳を傾けた多くの素晴らしき高校生たち、この映画を観た観客の何人かと同じように。TALK HARD ! (熱く語れ)、SO BE IT ! (それでいい) とハリーは言う。それはあの日あの時、僕らの中のもう1人の自分が言いたかったこと、誰かに言ってもらいたかったことと同じである。

明日の可能性は果てしなく、昨日の痛みは人知れない。『PUMP UP THE VOLUME』 と<A MAN I'LL NEVER BE>の2つの化体作用は、人によってはあの電話会社のコピーを変えさせることになるだろう:

君が思う私は、本当の私への扉である。

扉のカギは自分で用意しないといけない。街中にもし見つからなければ、それは自分の本棚かCDラックをもう一度掃除しろ、ということかもしれない。

中野利樹 (TOSH NAKANO)🍀

With thanks to C.S. & Y.I.

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