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nostargia
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よほど強靭で意志の堅固な人間でない限り、僕らは誰しも感傷にほだされる。狭量で涙っぽく、道徳的に不自由かつ自己満足的で、外に広がっていくことがないという以前に、あまり外に広がっていって欲しくないと願っていると言った方が正しい、自己完結型の陶酔的束縛。しかし、通常自分以外には手を差し伸べる機会を持たないその感傷作用が、広く人々一般の共通の受け皿になる場合がある。ノスタルジア、郷愁。ビートルズが1967年に<STRAWBERRY FIELDS FOREVER / PENNY LANE>の両A面シングルでその一番最初の奥深い、公式なポップのノスタルジアに手を差し伸べた時、僕らはその2曲をノスタルジアの2つの象徴的側面、すなわち潜り込む撞着と舞い上がる憧憬として聴いたのだったが、現在では人々は、それら2つの初期概念を既に駆け足で通り過ぎてしまっており、そこにあったノスタルジアのポップの遺伝子は、再び世界に散らばって撒かれている。ジョンとポールが素晴らしく覗き込んだ幼少期の郷愁は、依然として燦然と輝くポップ・ノスタルジアの出発点であると同時に自らの終着点として今もそこに、つまり始まりと同じ場所にある。

幼少期への郷愁でないノスタルジアの場合はどうなのか。パット・メセニー (PAT METHENY) の1987年作<LAST TRAIN HOME>の外観は「よくあるイージー・リスニングな感じ」だ。その「故郷行き最終列車」は、自分自身の月並みな外観に従って、よくある感じ、ごくありふれた感じで駅のホームを離れる。しかし間もなく聴き手は、ポール・ワーティコの刻むスネアドラムのブラシの存在を個別に知る。聴き分ける。そのスネアのブラシが、目立たないながらも自らの一定な刻みを終始維持していることに気づく。そして気づいた直後にそのブラシは、聴き手から想定される全感情、予期される全ての喜怒哀楽からすうっと離れる。それらを等分に噛み砕き、瞬時に飲み込んでいくのだ。ブラシのその不断の音色のレールが、当初聴き手が向かうはずだった故郷へのレールでなく、耳を傾けている今この瞬間も刻々と更新されている聴き手自身の人生、その全体を俯瞰し、見届けるレールであることに気づくまで。

瞬間瞬間で適宜出会ってはくっつき、挨拶を交わして談笑し、さよならを言ってまた離れる諸楽器の交錯と戯れ、その束の間の相互会話と多分に一期一会的なアンサンブル。人生を刻むブラシに集まっては消え、消えてはまた集まるたくさんの人々、ギター、ベース、キーボード。メセニーたちのその音の列車が目指す故郷は、どこにあるのだろう。人生の途中で、その故郷は決して見えない。仮に見えることがあっても、その場所は聴き手を拒まぬ一方で、歓迎もしない。「まだ途中」だからだ。メセニーの爪弾く電子シタールがそう断言するのを聴きながら、聴き手は人生のスネア、不変のパーカッションとともに、<LAST TRAIN HOME>の真っ直ぐなレールをひた走る。

自分が今聴いているその音楽だけが、ほかのどんなものよりも自分の事を理解しているのではないかと感じることがある。人が特定の音楽に持ち込む信頼や前提は、こんなに大きくも成り得るものなのかと、その音楽自身から改めて、直接教え直されるみたいにだ。その曲自身が自分にもう一度、いや、かけるたびに何度でも打ち明けてくれるかのように、それは感じられる。楽しかった時。辛かったとき。悲しかった時。嬉しかったとき。「なかなかやるじゃん」と思った日。「ダメなやつ」と思った日。愛した時。愛されたとき。泣いた季節。笑った時間。別れた時。怒れた時。いろいろあった日。なんにもなかった日。あり過ぎた日。なさ過ぎた日。捨て去った夜。手にした夕べ。気づいた夜明け。良い事があろうと、そうでない事があろうと、途絶えることは許さなかった営み、変わることは選ばなかったリズム。<LAST TRAIN HOME>の5分39秒は、聴き手を各々の人生の現地点に認め、そこから拾い上げ、手を差し伸べ、肩を組み、語りかけ、笑い合い、肩をポンと叩いて、再び去っていく。その最終列車は、曲の真ん中で加速する。速度を増しながら同じだけのスピードで後ろを振り返り、聴き手に叫ばせる。あまりに多くの感情が一度に生じ、混じり、流れる時、人はその感情のすべてをすくい取ることが出来ないためにどれか一つを代表させ、その代表させた代理感情の周りに、その他全部をくっつける。この音楽の内的加速のピークで、それが起きる。

<LAST TRAIN HOME>ブリッジの同時多発なマルチ・ヴォイスは、言葉にできないものを声にしようと求め、試みる。「ヘ―――イ、ヘイヘイヤー、ハオ――ゥウウオオ――」。したがってそのマルチな、多重なヴォイスは「ヴォーカル」でなかった。スキャットだったのだ。単に歌詞でないだけでなく、言葉でさえなかった。言葉である必要がなかったからである。それは「言葉にならないものすべて」、人間の生涯、すなわち人生のある地点までの意味の全部、人が考えうる生きる理由のすべてだったのだ。聴き手の、メセニーたちの。知り、経験し、味わい、学び、しくじり、犯し、傷つき、傷つけ、あきらめ、立ち上がり、見つめ、直し、治し、聞かせ、続け、今そのほぼ全てを含んで聴き手に語りかけ、聴き手と一緒になって突き進む声と楽器のアンサンブル、ヴァースを越えるたびに解き放たれていくレールと車輪の途切れぬ調べ。目を閉じると、あのすべてを含んだ声の束が聴こえる。目を開くと、その終始変わらないスネアのブラシが聴こえる。まだ、演奏のすべてが終わっていないのに。

<LAST TRAIN HOME>の素早くてゆっくりな、長くて短い5分39秒はこうして過ぎていく。それは演奏されるというよりも、暮れていくと言った方が当たっている音楽である。見覚えはあるものの、実際に居たことはないその夕べがそっと招き入れるサウンドと声との柔らかな光の中で、聴き手はあらためて、自分の感傷を採点する。それは<LAST TRAIN HOME>を聴いたあとにも狭量で涙っぽく、自己満足的で、外に広がっていくことがないものなのか。もしも答えがYESならば、その聴き手は自分の人生に向けて特に注釈を加える必要はあまりなく、これからもそのYESは、自分のレールと車輪の上で自分自身の呼吸をし、自分だけの空気を吸い続けることだろう。

答えがNOであるのなら、そこにある感傷は<LAST TRAIN HOME>以前の自分とは異なるベクトルに、それ以前とは違う新たな路線、新規なレールへと向かう。その新しいレールのうちのいくつかは<STRAWBERRY FIELDS FOREVER / PENNY LANE>へと向かい直し、あとの残りのいくつかは<LAST TRAIN HOME>をリピートさせることだろう。そのリピートは、今度聴く時には、故郷行き最終列車の月並みな外観を突破する。そしてその列車は故郷でないどこかへと、懐かしむべき郷愁を無用にする何かへと向かい始めるに違いない。新しいノスタルジア ―― ヴォーカルには成りようのなかった、言葉である必要を捨て去ったあのスキャットがこだまし、そうしながら手を差し伸べて駆け寄る新しい地点 ―― 未来へ向かうノスタルジアとしてである。人生の道しるべは、不変不動じゃない。走って行ってその道しるべ、自分で引き抜けば変わる。過ぎた過去だけにでなく、そのレールが明日に、あさってに、もしも敷かれているのならば。

中野利樹 (TOSH NAKANO)♠

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