1994年に発売されたコートニー・ラヴ(Courtney Love) 率いるホール(Hole) のセカンド・アルバム『Live Through This』は、バンドとしてのホールの評価を決定づける重要な試金石的ヒットになり、ペイヴメント(Pavement) の『Crooked Rain, Crooked Rain』やポーティスヘッド(Portishead) の『Dummy』らとともに、その年のアルバム・オヴ・ザ・イヤーを分け合う代表的作品となった。そのアルバムの真ん中に<Credit in the Straight World>という、ヴードゥー儀式の祈祷のような導入部をフィーチャーした3分程度の曲が入っており、なかなかの出来だった。けれども聴く方にしてみれば、その曲には少しだけ問題があった。ホールのオリジナル曲ではなかったからだ。
それは実質的に1980年のわずか1年間しか活動しなかったウェールズの3人組バンド、ヤング・マーブル・ジャイアンツ(Young Marble Giants) の唯一残したオリジナル・アルバム『Colossal Youth』に収められていたものである。そのヤング・マーブル・ジャイアンツの残した小さな足跡を、最近の新しいミニマル・ポップの注目すべきバンドやユニットの音楽に見つけることは、それを無視することよりはるかに簡単になってきている。ホール版の<Credit in the Straight World>を遠い火付け役として、ヤング・マーブル・ジャイアンツの出身地に近いイギリスでなくアメリカの各地で、その新しい「ミニマル・ポップ・ルネッサンス」が力を発揮し始めていて、小さな足跡はいまや、ジャイアントな足跡になりつつある。
ルネッサンスの代表格・注目株の1つであるサンフランシスコのアイラーズ・セット(Aislers Set)は、エイミーとジェイミーの2人の女性に男性のワイアットを加えたトリオを母体としたグループで、いかにもベイエリアらしい快活でさわやかなミニマル・ポップを響かせる。すいすいとあっという間に曲が流れていき、もともとそんなに長くはない演奏時間が余計に早く過ぎてしまう感じだ。『The Last Match』に入っている<Fairnt Chairnt>ではトロンボーンやトランペットなどの管楽器をうまく使い、ポストパンクでおなじみの「トゥー・トゥー・ララ・ララ」という一見投げやりなサイド・コーラスを外側に配置して、曲の推進力 (それとも "すいすい力" ?) を効果的に上げている。いわばミニマル・ブラスポップだ。
アイラーズ・セットには、古着を好んで着たがる傾向にあるミニマル・ポップを、チープながらもこざっぱりとした新調服に着せ替えるという別の才能もある。チャーミングな<Chicago New York>はベル・アンド・セバスチャン(Belle & Sebastian) が夢見るようなミニマル・フォーク・ポップであり、そうかと思うとエイミーが63年あたりにタイム・スリップした声で聞かせる<Red Door>は、素早く上機嫌なサーフ・ギターと60年代ガール・グループとのドッキングみたいに聞こえ、何だかディック・デイルがバックでギターを弾いているシュレルズ(Shirelles)の<Will You Still Love Me Tomorrow?>のミニマル・アップテンポ版を聴いているような錯覚をおぼえる。アイラーズ・セットのサウンドの部屋には、まだ探していない引き出しがたっぷりある。彼らがもしマーブルの<Credit in the Straight World>をやったなら、ホール版ではヴードゥーの祈祷に聞こえた導入部は、フィル・スペクターのウォール・オヴ・サウンドの来世版みたいに鳴り響くことだろう (EP所収の<Fire Engines>では実際に、彼らなりのロネッツ(Ronettes)<Be My Baby>のプロト版を作っている)。
冒頭で引いたミニマル・アートの語句の説明に違わず、アイラーズ・セットのその「単純簡潔」なパフォーマンスは聴いていて実に小気味よいものだ。けれども「非個性化」についてはどうだろうか。彼らはなかなかどうして、けっこう個性的である。ヤング・マーブル・ジャイアンツは『Colossal Youth』で名前を隠した。その演奏にわざと署名しなかった。そのアルバムが当時、ポストパンクとして機能するつもりのものだったからだ。『Colossal Youth』のサウンドは誰も聴いたことのない一種異様なものだったが、その反応は当然でもあった。その音楽は大衆音楽の歴史上最初のミニマル・パンクでもあったからである。アリソン・スタットンのふわふわと浮遊するミニマル・ヴォイスが、スチュワートとフィリップのモクサム兄弟が繰り出すギター、リズム・ボックス、ベース、オルガンの革新的夢遊サウンドがどれだけ遠くの山まで行こうとしていたのか、世紀を跨いだ今、それが分かる。『The Last Match』を聴いた今、その山の深さが見えてくる。
全6曲中カヴァー曲が1つあり、フランク・アンド・ナンシー・シナトラ(Frank and Nancy Sinatra)の<Something Stupid>がそうなのだが、聴いてみるとこれはカヴァーでなく、真のオリジナルじゃないかと思えてくる。ツイン・プリンセス版は健全なシナトラ父娘版よりはるかにリッチであり、サイケデリックかつエロティックで、原曲を聞いたことのある耳には、途中から何がどうなっているのかわけが判らなくなる。自分は望まないのに、脳が勝手にトリップしたみたいなのだ。曲はビートルズの<I Am the Walrus>風のストリングスで始まり、しばらくすると耳に入ってくるすべてのサウンドが奇妙にゆがみ、もうろうとして激しくきしみ始める。いったんそのゆがみが意識に昇ると、聴いている者は自分が突然サイケデリックな鏡の迷宮に舞い込んだことに気づく。そしてそれに気づいた一方で、今度は自分がいま聴いているのが<Something Stupid>だということを忘れてしまう。