マイケル・ジャクソン(Michael Jackson) のあまりに突然で悲劇的な、不審であり、ある点において疑わしいとさえ言える死から10年以上が経過した現在、彼の全レパートリー中、その死の前後で明らかに意味するところの変わった曲がある。1987年の<Man in the Mirror>は、マイケルにとってのその「転換点」であったのだ。
『Thriller』の次に出た『Bad』を聴いた世界のファンは【『Bad』の方が素晴らしかった。『Thriller』よりこっちのアルバムがもっと気に入った】とは多分思わなかった。むしろ『Thriller』を愛すればこそ、『Bad』のプロデュースをしたのが『Off the Wall』や『Thriller』と同じクインシー・ジョーンズであるとはなかなか信じ難かった。マイケルのファンは『Thriller』から5年、のどから手が出るほど待ちに待った夢の新作『Bad』を、どう受け取ったらいいのかが分からなかったのである。
『Bad』は『Thriller』のような輝ける金字塔とも、『Off the Wall』のような耐久性ある傑作とも微妙に、かつ本質的に異なっていた。その新しいアルバムの音楽は大別して「リズム過多かメロディー過多かのどちらか」に収まり、全世界待望の新譜は金字塔ではなく、単に新しく作られたという事実が自分自身の基礎となる最新の灯台を思わせた。新建築であるがゆえに全体はピカピカと輝いているものの、肝心の光量そのものは、金字塔の基準に照らすと平均を大きくは凌駕しない灯台である。
世界のファンたちは、自分自身の力強いイメージ支持力と継続的な忠誠心とに従ってそのアルバムに熱狂しはしたものの、その前後においてその音楽を真に絶賛することも、あるいは心底落胆することも出来なかった。それは「奇妙な時間」だった。その奇妙さが『Thriller』以前には存在しなかった特異なエア・ポケットを、ファンとマイケルとの間に意識の下でそっと生じさせていた。これは別に、いわゆる駄作とか失敗作とか、そういうのじゃ全然ない。素晴らしいよ。でも、だけど… (事実この<Man in the Mirror>と<Smooth Criminal>は静と動の2大白眉)。
マーケット・リサーチ的に言えば、当時のマイケル・ファンたちは『Off the Wall』か『Thriller』のどちらかの購買者、またはその両方のディープな顧客であった。人類の大部分がこの先2度と経験することがないだろうとさえ断言出来るほどのあの興奮と熱気、胸騒ぎ、空騒ぎ。その正常ではないポップ・フィーヴァー、空前絶後の消費フィーヴァーの中で、『Bad』の真新しい灯台にかかる光に対する期待と希望の荷は異常に重かった。まさに前代未聞の1987年のあの時、ファンは【『Thriller 2』でもよかったのに】と思ったのではなく、まさに【『Thriller 2』が欲しかった】のだ。それだけを実は心の深くで望んでいたのである。
現在我々が良く知る "KING OF POP" という枕詞は、その時まだ存在すらしていなかった。しかし、まさにポップのキングとして他の追随を許さない、激しく、情熱的に、華麗に、そして何より、誰よりもカッコよく歌い踊るマイケルは、<I Just Can't Stop Loving You>から<Dirty Diana>までの5曲のシングルが連続して次々にビルボードHOT100の1位へと到達していく間、自身の見えざるエア・ポケットに何が入っているのかを語ることはなかった。いや、語ってはいた。それら5曲のうちの4曲めの1位曲は、<Man in the Mirror>だったからだ。
<Man in the Mirror>の生真面目さとシリアスさは、1987年に、それ以降に「人々がマイケルの音楽から最も欲しかったもの」ではなかったのである。それはシングルの<Bad>や<Thriller>のように「1つの忘我、1つの無我夢中」として聴かれた。その音楽は単に「消費」された。空前絶後の熱狂と混乱の只中で、深くは聴き分けられぬままに、勢いで聴き流されたのだ。『Thriller 2』を望んだほとんどのファンは、そこにあったはずの転換を正しく受け損なった。空前絶後の熱狂と混乱の只中で、その転換自体に深くは気づけなかった。
2021年。コロナと酷暑の夏。12年間マイケルのいない世界の今日は、散漫で雑多な日常の中でぼくらが彼に関して見聞きするあれこれのほぼ全てが、その交わされなかったポップの相互会話と<Man in the Mirror>の失われたエア・ポケットを思い起こさせる。ずっと以前からそこにあった生真面目さと地味なサウンドとシリアスな歌詞。「その全体こそが彼の一番最初の、一番重要な、人々の心に最も永く記憶されるべき転換点であったこと」を、彼のいない世界と彼の去ったポップ領域は日々ぼくらに無言のまま語り続けている。
『Thriller 2』をあの日望んだファンたち。それは世界に散らばり、今も生きているわれわれである。完売しながら実現されなかった最後の、50歳での50回のロンドン・ライヴ、そのリハーサル映像を映画化した『This Is It』を見るたびに、そこにある種の罪の意識に似たものを感じることがある。それは現在も今後も世に出続けるであろう、彼の生涯に関するまやかし本やスキャンダル本の冴えない商売ネタのような、ゴシップ的な意味合いではない。
その超白人のような、超人種のような黒人パフォーマーの ――、華麗に、誰よりもカッコよく歌い踊る50歳の例外的ポップ・アイコンの変わっていった顔と変わらなかった細身のシルエット。『This Is It』に、それに彼の音楽をいま聴くときに罪の意識を感じるのは、そのシルエットを包んでいる変わらぬ黒いスマートパンツのポケットのどれかに入ったままの、彼が終生望んだイメージの走り書きを ―― 変わらなくてはならないのならば、自分自身に出来うる限り最大限にファンに愛されながら変わっていこうと決めたがゆえに苦闘したキング・オブ・ポップの知られざる真のイメージ、そのメモの切れ端を
―― 別に意識しなくても想像出来てしまうからだ。われわれの多くが一度は見落とし、見限りさえした、1人の人間の転換点を印した、汗と涙でにじんだままの切れ端をである。
その切れ端には<Man in the Mirror>の最も印象的な、彼の全キャリア中最も永続するであろう言葉が ―― その言葉を乗せて運ぶ地味で生真面目なサウンドとともに ―― ポップの時差で遅れてこだましている。長い年月を経て、切れ端の残りの半分は今、ようやく彼のもとに一回りして戻ったのだ :
「夏の間に捨てられたもの / 壊れてしまった瓶のふた / 少なくともひとりの人間の魂が / 風に吹かれて / 追いつ追われつ / いまここで舞っている」。
ひとりの人間の魂は、ポップの領域における不可侵の、あの屈強なイメージの法則から逃れた。その魂は「あの転換が誰にとって正しいことだったのか」を、今はもう問いかけてはいない。それはこれから先の長い間「誰にとって」ではなく、それよりさらに大きな「何にとって」正しいことであり続けるべきなのかを、残され、散らばったわれわれの日々に静かに佇み、心を込めて語り続けている。<Man in the Mirror>をかけるたびに毎回風に舞っていくその魂を、元の持ち主のポケットに直接返すことはもう出来なくなったこの世界で。そのポケットは今、残されて散らばった世界の僕たち1人1人の、普段は隠れて見えない場所にこそ、きっと在り続けるのだ。