言葉は、最初に発されたしばらく後になってからその人に届くことがある。佐野元春の2017年7月の新作『Maniju』はその「言葉の遅延」についての楽しく、示唆に富み、勇気づけられる希少な音楽だ。アルバムの真ん中に位置する<朽ちたスズラン>は僕に次のような事を考えさせた。実際に現実に考えたにもかかわらず、まるでその考えが現実上でなくて、完全な一夜の夢の中の出来事だったかのようにである。<朽ちたスズラン>はボブ・ディランの<Just Like a Woman>と同じ外観を湛え、同じ音楽上の回廊をくぐっていたのだ。
単にポップ・ロック音楽の歴史上のみならず、人類の文化史一般における輝ける芸術遺産でもあるポップ・ロック60余年史上で最初の2枚組アルバム『Blonde on Blonde』(1966年) の<Just Like a Woman> (=いかにも女性のように) の中で、当時あと1週間で25才だったボブ・ディランは、自分の言葉と音が50年後以上あとにも大切な意味を持ち続ける事など知らずに、あるいはただその事のみを強く知りながらこう歌っていた ――
50年後に<Just Like a Woman>をいま聴いて、涙が不意にこぼれるならば、流れるままに流せばいい。僕もその1人だ。ただし流す対象は<Just Like a Woman>の「君と僕」にではなく、その曲を50年後にいま聴いている自分の現在の美的世界、自身の今の現実世界に対する有限のまばたき、真新しい涙としてである。
その<Just Like a Woman>と同じ流儀のゆったりした流麗なカデンツをサブコンシャスにもサブリミナルにも用いた<朽ちたスズラン>の中で、佐野元春はその有限のまばたきと真新しい涙を、ディランにもまったく予想外の異なるベクトルに向ける ――
「スズラン」とは英語では「谷間に咲くリリー (=百合) =lily of the valley」であり、百合の別の意味は「純潔、純白」。歌詞中には一言も出てこないけれども、その純潔と純白は「朽ちた」。それが2017年現在の日本の美的記号の写実的風景、心のスカイツリーからの俯瞰図なのだと佐野元春は、<朽ちたスズラン>は告げる。『いいんだよ / もう 忘れよう』。
<新しい雨>と『Maniju』はその脆弱の困難の実際的な価値を、1人1人が全員違う生の物語として差し出す。ボブ・ディランの『Blonde on Blonde』よりさらに15年前の1951年、テオドール・アドルノは、いまや世界各国の大学機関の指定図書にもなっている名著『ミニマ・モラリア:傷ついた生活の省察』の中で、その困難と価値について苦々しく、英雄的に、そして何より誠実に書いていた。『もしも人生の本当の意義や意味、すなわち人生の真理を直接に知りたいと思うのなら、普段は遠ざけられた形のものに目を向け、独り吟味することになるはずだ』。
ルー・リードのライヴ版<Tell It to Your Heart>(2004年) の親愛と包括の薄暮、ジャクソン・ブラウン<Love Needs a Heart>(1977年) の時の流れに耐えるシンプルな精神と心のかすれ、ビートルズ<Free as a Bird>(1995年) の時空をまたぐ調和の転換を背後に再想起させながら、アルバムの表題曲であり、その輝ける最終曲でもある<マニジュ>は、その夢とうつつの境目からゆっくりと現れ、ゆったりと進み、威風堂々と歩みを続ける。そしてそうしながら、その最終曲は自分自身の回廊を切り開き、通り抜け、デタラメに散らかったこの世界の時間の刻みから、素晴らしく、美しく、見事に逃れる。