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hosino_gen
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星野源の<恋>を聴いていると、まるで「ちゃんと聴かないで」と言われているんじゃないかと思ってしまう。言葉はメロディーに乗ったと思った途端に予想外の速さで通り過ぎていき、一瞬CDの回転数が違うのかなという錯覚に襲われる。それでもやっぱり、その声とサウンドは「ついてこなくてもいいから」と言っている。その<恋>という忙しない音楽が、じわじわと響いてくるのはなぜだろうか。

そのハイスピードの音楽は、自分はじっくり聴いてもらえる存在じゃない、取るに足らないよと自分から積極的に宣伝しているようなものだ。興味が湧かなければ、星野源が仕掛けたその高速トラップにまんまと引っかかって、曲の途中で聴くのをやめてしまうかもしれない。けれども、やめるまでに彼の歌う慌ただしい言葉のどれか1語を、地味にきらめくフレーズの1つをキャッチ出来れば、<恋>は、聴くのをやめるどころではなくなる。それなしでは明日から、部屋を出られなくなるのだ。

中華風、オリエンタル風でありながら実際にはそれらの地域には存在しない、でも聴いたことある感を持った、軟体動物のように柔らかい不思議なイントロは、聴き手の耳から目にも移動し、この曲は立体的に聴くと楽しいよと知らせる。

営みの街が暮れたら
色めき
風たちは運ぶわ
カラスと人々の群れ

忙しないアレンジの中に埋もれそうに聴こえるヴォーカル、その歌声は見かけ上、典型的な意味では、美しくはない。一般のプロ歌手が白鳥だとしたら、星野源は黒鳥であり、カラスである (もっとも実際には、カラスも黒鳥も、白鳥同様に美しいわけだけれど)。その歌いっぷりは、あなたがプロの歌手だとしたら、シロウトの友達に録音当日、急遽代理を頼んでるような感じだ。どのようなプロ歌手・職業アーティストでも共有して持っている類のプロっぽさ、それが星野源には、<恋>にはない。彼の録音作品は共通してヴォーカルが素のまま録音されていて、エコーやリバーブなどの職業標準的な後処理がほとんどされておらず、<恋>のヴォーカルも、センターの奥にモノラルな定位で控えめに、引っ込んで聴こえてくるだけだ。とにかく、そのヴォーカルは聴感の上では全然フィーチャーなんかされていない。ふさわしい待遇を受けていないのだ。

その「ノン・フィーチャー感」が、この曲の素早いテンポと並んで彼のトラップであり、星野源の流儀と作法である。その素っ気なさと素人っぽさは、プロよりもシロウトの友達として語ろうとするプロの試みなのだ。この曲が2016年ではなく、もしも1986年に発売されていたなら、<恋>は、もっとゆっくりに歌われていただろう。ヴォーカルのミックスを大きくして全ての歌詞がもっと聴き取れるようにし、悠然としたテンポで、いかにもプロっぽく聴く者に届いたことだろう。けれども、2016年の星野源はそうしなかった。この曲の素早さと同様に、体感上の24時間が1986年よりも素早く過ぎていく2016年の僕たちの目の前には、「意味なんか / ないさ / 暮らしが / あるだけ」。

活字だけ見れば、現代に生きる人間のやり切れない気持ちや、でも割り切って行かなくちゃしょうがないよね、それがこの時代に生きるってことだから、が含まれている歌詞なのだが、星野源のプロのシロウトの歌唱は、その1行を、非難や諦め、したり顔、論破の対象として歌っていない。その歌唱には、皮肉の類がまったく存在していない。<恋>の声は「意味なんか / ないさ / 暮らしが / あるだけ」を、得意顔でそんなの当たり前じゃんとは思っていないのだ。当然や当たり前を、むしろ1から、0から、最初から受け止めて感じ直そうとしている。個性的な彼の反典型の反美声は、その1行が本来伝えるはずの喪失を、それとは反対の獲得に、見逃されて放置された発見に変えようと試みるひとり遊歩の声、徒歩帰宅の声である。忙しなく慌ただしい2016年にだ。「ただ / 腹を空かせて / 君の元へ / 帰るんだ」。

彼はその「帰るんだ」に、再発見される当たり前の幸せを添えて歌う。最近聴いたことのない当たり前の幸せが「だ」の歌い方に、言い切りの終わり際のトーンに聴き取れる。ただいま。おかえり。それはどれだけ幸せな出来事なのだろう。どれだけ幸せな出来事だったのだろう。 星野源はそう歌う。その最少の、最短の4文字会話は、本当は、つねに幸せな出来事だったのだ。

その「本当は」が、星野源が届ける2016年秋の暮らし、<恋>が伝える2016年秋以降の暮らしである。人を結ぶ糸数が増え、糸の見かけ上の輝きは増し、糸の強度は下がった今日の暮らし、摩耗、楽しい素振り、アゲる感覚、サガる感覚、ものをじっくり考えるよりも、ものを単に面白がるように持っていく世の中の傾向、その傾向に誘導される個人の傾向、社会の表面、生活の氷面。ものを考えない世の中だから、そもそもちゃんと聴いてもらえはしないんだと悟って知っている星野源の反典型の反美声が ――、諸々の傾向は時代の主流だから、この曲にも別に深い理解は不要だよとすれ違う、急ぎ足の、素顔を伏せたプロのシロウトのヴォーカルが ――、生活の氷面の氷をハイスピードであっためて溶かす。お涙ちょうだい方式ではない新しいメソッド=「本当は」を使って、その生活の奥に溜まった古い氷を、新しい真水に解凍する。

<恋>で耳にする音と言葉のメソッドは、僕たちの暮らしを覆っている大小の無香に働きかけ、無香の1つ1つの種類と厚味、履歴を、あらためて確かめさせる。それは元々は、どんな香りがしていたのか。香りの記憶に意識を向かわせるのだ。そのメソッドは、<恋>を主題歌とし、星野源本人が新垣結衣とシェア主演した、海野つなみのコミック原作、野木亜希子脚本のドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』の中でも、引き続き有効に、見事に作用していく。

10月にTBS系列でオンエアされて以来、エンディングのラヴリーな「恋ダンス」が8800万回超という爆発的な動画再生回数と流行を呼び、毎週視聴率が口コミ+目コミでジワジワと上昇し、初回の10.2%から最終回の20.8%へと、実に2倍以上に上昇していった異例づくしのこのドラマ。「恋せずには / いられないな / 似た顔にも / 虚構にも」。現代の若年層の「恋愛しない率」およそ70%。これには統計特有の数字のマジックもあり、個人的にはその報道を信じていないけれども、『逃げるは恥だが役に立つ』がこれほどまでに人々の絶大な関心と支持を得て、ネット上の会話と現実上の会話を数限りなく運んだのは、<恋>の中盤の歌詞にも登場する「虚構」、制作されたドラマという虚構=作り物の中に、見る側が通常値を大きく振り切る共感を寄せ、仮想原則よりも現実原則の上で感情移入したからだった。僕たちは50分間のどこかに自分の居場所を毎週見つけ、通常とは違うその希少な居心地を記憶し、自分の引き出しにしまった。

「新世紀エヴァンゲリオン」や「情熱大陸」や「101回目のプロポーズ」、「筑紫哲也 NEWS23」や「サザエさん」「ザ・ベストテン」などの引用やパロディを随所にうまく散りばめながら、それらに潰されることなく自立していくこのドラマ。置かれている状況や生きている環境、立場や年代や性別が違っていても、この国に今実際に生きて暮らしている多数の人々が共通に所有している原始感情や気分、大切にしているもの、共有したいと願う事柄の姿や形はそれほど違っていないということを、『逃げるは恥だが役に立つ』は行間で伝えてもいた。そのドラマが受けているという客観的事実は、未曽有の超高齢化社会・断絶分断社会へと向かうこの国にまだ残っている主観的希望=本当は誰かと深く繋がっていたいという、見逃されて放置された、関係性の希望を伝えてもいたのだ。

このドラマには、現実の恋愛や生活に生じる肉体性が故意に (または恋に?) 欠けているのだが、それは原作の設定上の重要な制約でもあり、その制約がドラマ上では素晴らしく有利に働いた。『逃げるは恥だが役に立つ』は、楽しくも、真剣にも見られる50分だった。大笑いし、感心し、じれったくて、ハラハラし、切なく、励まされ、最後にはドラマと自分の両方に声援を送っていく50分 ――、確信を与え、諭され、癒され、自分を自分に帰らせる知らせと効果を運んだ時間でもあった。最初から最後まで、そのドラマの何もかもが他とは違っていた。感情の移入が、画面のキャスト達からの意思の移出となって、見る者にもう一度戻っていったのだ。視聴者は、僕たちはこのドラマから、レアなギフトを、「見たお返し」をもらったのである。

いいなあ
愛される人は

愛される人は
いいなあ

第4話の45分過ぎに星野源の津崎平匡(つざきひらまさ) が心の中でつぶやくこの4行。それは第4話の、このドラマ全体のブラックホールだった。35年間、好意を持った相手に受け入れられたことがない、誰にも選ばれず、必要とされない、愛された記憶を持たない「自尊感情の低い」ITエンジニア津崎平匡。その孤独な彼の2回目の「いいなあ」の発され方には、信じられないほどのリアルさと真剣、切実と哀しみが込もっていて、気楽な楽しみを求めて見ている僕たちの気楽な気持ちを裏切り、その気楽を真っ黒い所に吸い込む。

思わず知らず、彼の肩に手を回して「そんなことないよ」と心から声をかけたくなる力を、自分自身の肩にそうしたくなる力を、1分30秒のシークエンスは永続的に保持していた。個人の限界の吐露と露呈が、テレビの画面上でこれほど痛々しく突き刺さるのは、そのセリフの持ち主が、<恋>を歌う星野源と同じ星野源だったからだ。彼でなければ、彼が演じた津崎平匡でなければ、その場面は通常の、僕たちが見慣れた、暇なら潰せるけれど結局は後に何かは残さない、いつもの気楽な絵空事になっていたことだろう。

「何てことはない。戻るだけだ。1人で暮らす、平穏な生活に。たまに来るジュウシマツを、愛でる生活に」。日本でも大ヒットした1988年のイタリア映画『ニュー・シネマ・パラダイス』の作曲家、巨匠エンニオ・モリコーネの作風を彷彿とさせる、控え目でありながら優雅な、過度の自己主張は避けながらも内部をえぐるストリングスとピアノのBGMが手前でさりげなく始まる。そこからそのTVドラマは一級の劇場映画に切り替わり、視聴者はTVのドラマから受け取りたいと思っている以上のものを眼の前に見る。自分が息をしていることを忘れながら過ぎていくそのおよそ90秒は、視聴者自身の中にある個別の生きるBGMに跳ね返り、それぞれの琴線に反響して画面と色調を合わせ、共鳴を始める。

その場面は、単にドラマの秀逸な瞬間だっただけでなく、星野源が津崎平匡と一緒に歌った最短の歌でもあった。それは言葉通りの意味を伝え、意味をさかのぼり、背後にある諦めと諦めきれないを瀕死に伝えながら、それでも自己不信と自己憐憫とを同一視せずに区別した。「どうして誰も自分に気づいてくれないんだろう」ではなく、「どうして誰かに受け取ってもらう事が自分には出来ないんだろう」とその4行は自分で自分に歌い、心から溢れてこぼれた孤独の「いいなあ」は、津崎平匡の35年の人生のすべてを、4文字で、2秒で代弁した。深夜の、誰もいない暗いオフィスのデスクで。

でも彼は自分じゃないよなあと感じる人は、その最短の歌は聴く必要がないだろう。もしも『逃げるは恥だが役に立つ』がアメリカのHBO放送のドラマだったなら、ここで1965年の世界的ヒット曲<WHAT THE WORLD NEEDS NOW IS LOVE>(世界は愛を求めている) の最後が流れていたに違いない。「世の中に / いま必要なのは / 愛 / 特定の誰かだけでなく / みんなへの」。なんとクサイのだろう。そうかい、わかったよというくらいの陳腐な、工夫の足りない、典型的なお道徳歌詞だ。ところがそれを歌うハスキーボイスの女性歌手ジャッキ-・デシャノンの、曲の一番最後の「みんな」=「everyone」は陳腐ではなかった。真実だったのだ。

かすれて消えるその1語の末尾は、自分の命の終わり際に懸命に伝えていた。「こんな歌詞、多数の人たちに伝わるわけない。分かってる。でも、もしも伝わる事があるのなら、もしも伝わる人がいるのなら、この音楽、この最後のかすれ声がこの世で生きた理由は、叶えられた」。そのあとのバックコーラスの女声の束が曲への花束として熱っぽく続き、最後のかすれの残りを支え、愛の足りないこの世に自分を分け与えながら、その陳腐で美しいお道徳音楽は終わる。まるで永久に終わるかのように。それっきり帰ってこないまま、2度と再生やリピートはされないかのように。2度と聴くことが出来ないかのように。

<WHAT THE WORLD NEEDS NOW IS LOVE>は、特定の誰かを愛するのを止めてみんなを愛せ、博愛こそ愛なのだと言っていたのではなかった。特定の誰か、誰かたち、を愛する気持ち、愛した気持ちを、当たり前の過去や当たり前の現在とはせず、もう一度見つめて噛みしめてみようよと歌っていたのだ。星野源の津崎平匡の「いいなあ」の末尾のかすれは、<WHAT THE WORLD NEEDS NOW IS LOVE>の末尾のかすれと同じ重みを持っていた。演技者と歌手が、伝わらない事を知りながらその難関を突き破ろうとする苦しみが、静かに音も立てない決心が、誰にも気づかれない人知れぬ実行が同じだったのだ。そうかい、わかったよという多数の気楽な勝手は、人が人に、耳を、目を、何かを傾けるという少数の気楽でない本物の包容の中に、逆転で吸い込まれる。その一瞬だけは。

世の中が便利に、快適に、快速になるに連れて増えるもの。依存、自動、刹那主義、短考、防御、当たり前。これはこんなもの、あれはあんなもの。生活とはこんなもの、世の中とはこんなもの。愛するとはこんなもの。自分とは、こんなもの。ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』は、その当たり前が放つ多数の気楽と勝手に、無意識と無力と無香の集合に、時にコミック実写版のように、時にTVドラマ実写版のように、時に僕たちの現実の実写版のように、楽しく、分かりやすく、真摯に語りかけている。

誰かに
誰かに選んで欲しい

ここに居ていいんだって
認めてほしい

それは
贅沢なんだろうか

みんな
誰かに必要とされたくて

でも
うまくいかなくて

いろんな気持ちを
ちょっとずつあきらめて

泣きたい気持ちを
笑い飛ばして

そうやって
生きているのかもしれない

多数の気楽が静かに心停止する。新垣結衣が最高に素晴らしくキュートに演じる、就職活動全敗から大学院卒が仇になって解雇された派遣社員を経て家事代行業の、今まで誰かに選んでもらったことがない、「誰にも認めてもらえなくても、自分は自分として頑張ればいいって、分かっちゃいるんですけど」という森山みくりが、第1話の夜の帰路を歩きながら、星野源の津崎平匡と同じように心につぶやくセリフだ。そこにはどんな社会学も処世術も出てこないが、どんな社会学や処世術にも適切にすくい取ることの出来ない、日本に今生きている個人の2つの状況 ―― 目に映っている状況と、心に映っている状況 ―― を、その独白はすくい取り、言い当て、抱きしめている。視聴者が森山みくりを、その独白を全力で抱きしめるように、深夜の孤独の「いいなあ」と同じようにだ。人を笑わせなんかしないそのシーンは、鏡の反対側から見た津崎平匡であり、「いいなあ」の詩的な完全版、双子のロング・ヴァージョンであり、日本に今生きている僕たちの、心のディレクターズ・カットである。

あの多数の気楽と勝手は、つまり多数の僕たちは、その鏡には一体どう映っているのだろう。もしも当たり前の顔をして映っているとしたら、ものを考えることをあきらめた顔をして映っているとしたら、新垣結衣=森山みくりの独白と星野源=津崎平匡の「いいなあ」、それを含んだドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』と主題歌の<恋>は、わざわざどこかに逃げたりしてもしなくても、いつか何かで、きっと役に立つはずだ。そこには今日現在の彼らの空気、僕たちの時代の空気が、今もいっぱい詰まっている。<恋>に戻ろう。

醜いと秘めた思いは
色づき
白鳥は運ぶわ

醜いと秘めた思い、それは<恋>と『逃げるは恥だが役に立つ』の領域内では「当たり前を当たり前だと、用済みだと受け止めないこと」である。「物事の当然視」「固定観念の自動通過」が世間を、個人を小さく縮める。考えやアイディアを、個性を小さくし、本来の力を、可能性を、素晴らしさを発揮させなくする。硬くし、弱らせる。そしていつの間にかその過程に、慣らせる。こんな考えを持っても、今の世の中で活かせる場所がない=醜い。だから世間の彼は、彼女は、「秘める」。しかし同時に、だから<恋>の白鳥は、その醜い思いを運ぶ。その白鳥は、運ばずにはいられないのだ。でもいかに、どうやって?

当たり前を
変えながら

星野源のカラスの声は、この時代の白鳥の声だった。人が人と出会うこと、誰かと繋がっていると思えること、誰かが誰かを選ぶこと、誰かと共に在ること。それが<恋>と『逃げるは恥だが役に立つ』の両方が伝える「当たり前じゃない当たり前」の心臓であり、僕たちをプロのシロウトに変え、ここに居ていいんだと教える、「本当は」というメソッドのプロダクト・キーである。それを<恋>の歌詞に、ドラマの主要言語に最終変換するとこうなる。

君の中にあるもの
距離の中にある鼓動

キーはユーザーの気分次第で2016年秋以降の、生活のさまざまな場面で自由に使える半永久の限定特典でもある。<恋>の最後の3行が、キーとメソッドの当面役に立つ有効な活用法を、ネット上ではなく、自分自身の音楽上にアップしてくれてもいる。当たり前のように、当たり前なんかじゃないように。

夫婦を超えてゆけ
2人を超えてゆけ
1人を超えてゆけ

人の生とは、場面場面が響くか響かないかのロールプレイングであり、ただいまとおかえりの、ささやかな、かけがえのない濃縮還元である。1人でも、2人でも、夫婦でも。そして津崎平匡も、森山みくりも、あなたも、わたしも、それぞれの距離の中で、その距離の鼓動として生きているのだ。

中野利樹 (TOSH NAKANO)♠

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