パティ・スミス(Patti Smith) の<Because the Night>は、サード・アルバム『Easter』からのシングルとして1978年に発売され、すぐにトップ10ヒットになった。その3年前の75年に、パンクするNY女性吟遊詩人の先駆けとして28歳で颯爽とデビューしたスミスは、デビュー・アルバム『Horses』が批評家に激賞されながらも一般にそれほど売れなかったということで、かえってその才能と存在とに箔をつけていた。<Because the Night>は時のロック・スター、ブルース・スプリングスティーン(Bruce Springsteen) との共作であり (彼の提供詞曲にスミスが歌詞の変更を施した)、そのサウンドはパンクではなく、ポップだった。『Horses』の信奉者たちは、そのポップに顔をしかめた。たちまちにしてこの曲は、「パティ・スミスをどれだけ理解しているかを試す踏み絵」になった。
<Because the Night>はラヴソングである。男女の恋愛についての正面切ったものだ。「私をまるごと受け止めて / 強く抱いて理解して」「あなたを傷つけることなど出来ない」「夜は恋人たちのもの / 愛のためのものだから」。歌詞の他のところに出てくる「渇き」「炎」「宴」などの文句も、同様の役割を受け持つ。曲は暗闇を照らし出すサーチライトのようなピアノで始まり、愛の成就にむかって、スミスはまっすぐに進んでいく。ギター・ソロを経由してサビのところでドラムスがバンバンと恋人たちの尻をたたき、その愛にゆるぎがないかどうかを問いただす。
<Because the Night>の失敗は、彼女が愛を (それが何であれ) 自分のものだと暗に主張してしまっている点にある。1人称で話を進めながら、彼女は次第に話の語尾をヒステリックにひきずり始め、ついには自分に訪れた愛こそが本物の愛であると演説する。愛は誰のものだろうか。我々皆のものである。あるいは全然誰のものでもない。いずれにせよ、スミスのものではない。スミスだけのものではない。けれども彼女が結果的に目指しているのは、この曲を聴いた者に「パティ・スミスの愛は素晴らしい」「スミスの愛は本物だ」「スミスの言う愛こそが最上のものだ」と信じさせることに成り変ってしまっている。
彼女が<Because the Night>で力説している限りにおいては、その愛は「欲望に偽装した天使」であり「私たちを感じさせる宴」であり「電話のベル」である。その隠喩が抱えているこざかしさ、あざとさのことごとくが、この音楽がサウンドとして本来備えているはずの推進力を、徐々に奪い取る。この曲にはロックにおける一定のダイナミズムといったものが確かにあるけれども、それは主に強要と強制から来るダイナミズムである。才気煥発な彼女がどんなに語気を荒めて愛を宣伝しようとも (あるいは単にセックスをばらまこうと) 、<Because the Night>では愛は動かない。たとえ動いたとしても、それは元に戻るための物理運動に過ぎない。
<Sin City>の序盤においてもそれは基本的に同じであり、ブルックスは自分が語ろうとする物語をふさわしい形で届けるための声とサウンドを探し当てられないままである。彼女自身のファッション・カントリー的な声、平べったいアレンジとプロデュースは共に底の深くない、前もって限界の定まったものだ。音楽は自分の身の丈からはみ出すことなく進んでいくが、この曲は<Because the Night>のように、爆発を誘発することはしない。
愛の可能性が生じる。ほかより優れていると言う必要のない愛、名前を付けて自分のものだと触れ回る必要のない愛:祈りとしてのキスである。この曲でのブルックスの偽カントリー・ヴォイスはその "天使の感触" に成り変わる。<Because the Night>の「欲望に偽装した天使」ではなく、人間の罪と欲とを見届ける天使。<Sin City>の半ば以降、人はひとつの声を聞く。その声をどう記憶するかは、音楽の好みの問題というよりも、個人の信条の問題のほうに近いように思える。
JUST ONE KISS ―― それはまた、曲のフェイド・アウトの直前にブルックスの天使が都合6回打ち込む、祈りの呪文でもある。そのキスは人を祈らせるだけでなく、人の罪と欲とを祈らせる。そうやって<Sin City>に愛はもたらされる。それ以外の罪の街にも。その愛は、動かぬものを動かそうと無理に奪い取った愛ではない。予期せぬところで無計画に、思いがけなく分け与えられた愛なのだ。それは結局、映画のラストでジュリアがリックに交わすキスと同じものである。ディ・パルマが語る物語において、そのキスはなくてはならなかった。映画の最後に<Sin City>がフル完奏されなくてはならなかったのと同じ程度にである。
JUST ONE KISS ―― 思いがけないそのキスに、リックは生まれて初めて本当に瞳を閉じ、心を開く。ジュリアが与えてくれるまで、リックはそんなキスは知らなかった。その前のセリフで彼が言っていたように、刑期を終える1年か18ヶ月後、リックはジュリアに電話をして、2人はもう1度会うことになるのかもしれないし、そうならないかもしれない。どちらにしても確かなことがある。「ま、いいか。とりあえずTVには出たし」。ジュリアが去ったあと、そうつぶやいて、リックは吸いかけだったタバコを続ける。火を着けた数分前とは違った味がするタバコだ。リックが本当に心を入れ変えるのかどうかはわからない。そもそもジュリアは、彼に何もしなかった。ただキスをしたのだ。確かなのはそのキスが、長回しの工事現場のコンクリートに埋まったあの真紅のルビーよりも値打ちのあるものであり、リックの中で、その石に劣らず輝き続くということである。しばらくの間は。
たった1つのキス ―― それは<Because the Night>が除外していたもの、見送ったものであり、僕らの反復再生型日常、半全自動型社会が要請する簡易性と表面性、即席性とが半ば無意識に弾き飛ばしている (たとえ恋人同士であっても、夫婦であっても) ものの1つであり、<Sin City>と『スネークアイズ』では、行き場を求めて有り余っているものである。人を目覚めさせるキス、それは自分自身目覚めうるからこそ、誰かをもまた、目覚めさせる。
中野利樹 (TOSH NAKANO)🍀
P.S.
<Sin City>は『スネークアイズ』のサントラに収録されているが、実際の映画版とはかなり違っていた。また、シングル・カットされなかったため<Because the Night>のようにヒットすることはなかった。メレディス・ブルックス自身の後のアルバムにも<Sin City>は収められているが、完全に別のヴァージョンが使われており、そこでは罪も欲もキスも祈りも、すべてが殺菌・消毒されている。現在のブルックスは罪の街と無菌の街の両方にいて、今後の住居は定まっていないままである。映画『スネークアイズ』はそれなりにヒットしたが、ディ・パルマ作品としては特別に評判になることはなく、映画全体の出来からすると、それでおそらく妥当だった。