いつも利用する電車を降りて通る道の途中に、ほぼ必ず80年代から90年代の洋楽ヒット曲を流している書店がある。その日はティアーズ・フォー・フィアーズ(Tears for Fears) の<Everybody Wants to Rule the World>(「ルール・ザ・ワールド」) が、始めにかかっていた。イギリスの2人組である彼らのもう1つのメガ・ヒット<Shout>とともに、その覚えにくいグループ名を覚えやすくした85年の全英No.2、全米No.1シングルである。「誰だって問題を抱えて生きている / みんな世の中を思い通りにしたいんだ」。その曲の意味は当時から知っていたのだがその日は違って聴こえた。本来主題であるはずの「世の中を思い通りに」ではなく、その前の「みんな」=EVERYBODYが耳に残ったのだ。
手に取った書店の本をパラパラとめくりながら、そんな考えが頭をすっとよぎった。そして<Everybody Wants to Rule the World>が誰も聞いていないBGMとしての役割を立派に果たしていく間、その考えの奥にある不憫さ、そんなこと考えても無駄だという気持ちが、本をめくった手をすぐに手持ちの iPod へと向かわせた。あった。その不憫さから取りあえず逃れる場所が。
スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーン(Sly & the Family Stone) の<Everybody Is a Star>は1970年のNO.1シングル<Thank You (Falettinme Be Mice Elf Agin)>のB面曲ながらのちにすぐ両A面扱いとなり、同時No.1曲として認定された。その曲は、その日の自分にとっての隠れ家、アジト、避難先としてそれからの3分間機能した。その音楽に自分のその不合理な不憫さをサッとすくい取ってもらうか、そうでなければ無下に否定してもらいたかったのだ。そんなこと考えても無駄だという居心地の悪い気持ちを、どうなろうととにかく、その曲に託したかった。そうすることによって、その場で感じていることの辻褄を、勘定を何とかして合わせようとしていたのである。
50年後の現在に聴く<Everybody Is a Star>は、おもに後ろ向きにしか喋らず、一方向にしか機能しない。予定の場所にたどり着くガイドをする代わりに、その場所を黙ってただ提示するのだ。そこが無人の、人影のない廃れた観光地であることを証し立てること ――、それがこの曲の当初からの元々の機能であったかのようにである。「流れ落ちてゆくスターを / つかまえるんだ / 地面に着いてからじゃ / 遅いんだ」。そう歌うラリー・グラハムの不吉な低音は、この50年を一蹴して消える: ほらな、あの時本気だったんだよ、おれたち。
<Everybody Is a Star>がいま意味するEVERYBODYはその『ほらな』と不可分であり、その2つは同じコインの表と裏である。前者がかつてポップ領域において内包していた、人々があまねく抱える価値観の多様性や多義性 ――、それらを適切に切り取り、簡単には擦り切れないサウンドと歌唱によってその諸概念を思いがけない新しい形で骨太に提示、肯定、称揚したポップ・ヒット。その大胆なアンセム的音楽、公共演説的音楽が見通していた多様性と多義性とは、見通すと同時に冷徹に、鋭敏に、そして愛情たっぷりに見切られてもいた。それはいまは別の、もうひとつの EVERYBODY に語りかけている。『MY EVERYBODY』と『YOUR EVERYBODY』にである。
聴衆の断片化と個別化 ―― その社会学的常套句、決まり文句の中に<Everybody Is a Star>が<Everybody Was a Star>になった理由の全てがあるというのか。あるいは秩序は、まとまりは、一度集まったもの・事・人は、必ずそこから崩れる方向にしか向かわないというエントロピー増大則のありふれた実例に過ぎないということなのか。その熱力学と統計力学の最終理論から逃れることは許さない、そういうことなのか。
書店で突然対面したMY EVERYBODYとYOUR EVERYBODY、 それに<Everybody Wants to Rule the World>は、お題目としての誰だって、みんなが、誰もがを取り戻そうと苦闘する代わりに目先の隠れ家とアジトの皮肉な価値、その後ろ向きの意義をただ強調しただけだった。そこで聴いた<Everybody Is a Star>に求めたかったものは、本当はその隠れ家やアジトではなかったはずなのにである。その音楽に差し出した真のリクエストは曲が終わるやいなや、さっさと方向転換して、どこかへ行ってしまったのだ。
そのあがきの大規模な集積、その願望の突然の、現実らしきものに基づいた一斉開花以外に<Everybody Is a Star>の「ほらな」に応えるすべはない。それが書店でのひとときに現れた複数のEVERYBODYが教えた実質の、依然として沈下したままの、にもかかわらず今もって第一次の公共のポップ原則、共通の仮想現実原則である。本物のアーティストである誰か・誰かたち、がそこにある不文律を、ある日いきなり、公式に、劇的に再公開する時までは。