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drifter
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同一アーティストによるセルフ・カヴァー、いわゆる再録音版というものは、一般的には聴き手に歓迎されない。その当該オリジナル曲のファンであればあるほど、好きでいればいるほどそうである。なんだか約束を破られた感じがするのだ。その感じはちょうど、恋愛におけるすれ違いとも似ている。「それって、言わなくても分かる暗黙の了解だったはずじゃないか」「言わなくて分かると感じられること自体が、ずっとお互いの信頼の証しだったんじゃないの?」。

アーティストは約束などしていない。約束したのは、聴く側のこっちだけである。特定の曲を気に入ったその時に、ぼくらの心の中に、ファンとしての自分を擬似アーティストにしてしまう転化作用が起きたのだ。他者が語っている事柄がこうも激烈に率直に、素早く自分を再構築するのはなぜなのかという好奇の選択的自己同一化作業、アーティストが語る物語や事柄を自分自身の語りや事柄の一部または大部分だと認識させる、好意の肯定同化作用がである。気に入ったという熱い気持ちの高揚、その瞬間の制御不能な感情の交錯が無意識に、時には能動的に、そうさせるのだ。

再録音版はその同化作用と肯定作用の源である、特定の曲に聴き手が持ち込んでいたあらゆる愛着、信頼、期待を、いったんホゴにしてしまう。事前の通告なしに、なかったことにしてしまうのだ。転化作用をすでに通り抜けてしまっているファンには、その行為と逆行する片側通行のプロセスが耐えられないのである。そして耐えられないだけでなく、たいていはそのあと、がっかりする。なぜ約束を破ってまで、こんなものを作ったのか。理解に苦しむ出来栄えの結果を聴かされるからだ。同じ曲なのに、どうしてこうも違うのか。やらなきゃよかったのに。聴かずにすんだのに。恋人同士がささいな事からついには決定的にすれ違うように、その曲の最初の約束に含まれていた愛着と信頼、期待は、当初の可能性と輝きを失う。落胆と不信が取って代わるのだ。一方、約束をした覚えのないアーティスト側は、その聴き手側の感情の降下と硬化に気づくことなく再録音版の意義と正当性を探し続け、その生命を維持しようとする。こうして、聴き手が交わしたはずの約束は破られる。

しかし、何事にも少なくとも1つの例外はあるものだ。ロジャー・ニコルス・アンド・ザ・スモール・サークル・オブ・フレンズ(ROGER NICHOLS & THE SMALL CIRCLE OF FRIENDS) の<THE DRIFTER>(<ザ・ドリフター>) には2つの時間と2つの場所、それに2つの生命が今も同時に共存する。このソフト・ロックとバロック・ポップの金字塔的音楽は40年という歳月を跨いで2回録音され、発売された。その事実だけでもめったにない珍しいことだが、その2つの生命は、どちらも同じだけ今後も生き続けると容易に推測できるのだ。1968年のオリジナル、2008年の再録音版、そのどちらも別々の理由で約束を守っているからである。

ソフト・ロックの聖典としての地位を、いまや他のどの国よりもここ日本で不動のものにした感の強い1968年のオリジナル版<THE DRIFTER>では、おもに未完成という荒い甘さ、苦い響きが聴こえる。素晴らしくはあるが、それと同じだけ不完全なのだ。カーペンターズ(CARPENTERS) の<WE'VE ONLY JUST BEGUN>(「愛のプレリュード」) <RAINY DAYS AND MONDAYS>(「雨の日と月曜日は」)で有名なポール・ウィリアムズ(PAUL WILLIAMS) の作詞による自分の中のさすらう気持ち、隠せない漂流者=THE DRIFTERを探し求める会話は「ロジャー・ニコルスと小さな友達の輪」、すなわちマレイとメリンダのマクレオド兄妹とニコルスのトリオ・アンサンブルを跳躍させる。

当時その才能を高く評価されながらもヒットのなかった彼らの、通算7枚目にして最後のシングルでもあったこの曲は、そういった製作上の事情から彼らの要望通りにさせてもらえず、事実上メリンダの代わりに外部のスタジオ・シンガーを受け入れる変則的ラインナップとなってしまった。そのことが想像以上に他の2人のヴォーカルにも影を落としており、20代のニコルスとマレイは、ウィリアムズの表面上小奇麗な歌詞から、小奇麗さ以上のものを伝えきれていない。「この気持ちを / 隠す理由なんてないさ / この目をちゃんと開いて / 自由に生きてみたいんだ」。この版のあちこちに施されているアレンジ上の、宝石のように輝く実際は手作りガラス細工の装飾的要素に支えられて、彼らは懸命に<THE DRIFTER>を歌った。しかし68年の彼らは、自分の中に存在しない感情のひとかけを、想像力という別の才能で補うことが出来なかった。若すぎたのだ。

それでもそこに約束が聴こえたのは「これが僕らが意を尽くした最終版、完成品ではない」とその68年版が告げていたからである。イレギュラー体制の彼らは、この音楽をいつもより苦心して歌うと同時に、そうしながらその<THE DRIFTER>自体の内側をさすらっていたのだ。表現としてでなく、状態として。さすらう心 ――、68年版の<THE DRIFTER>は、その心に到達しなかったニコルスたちの善意のナイーヴさ、イノセントな発展途上報告としての約束を残したのである。

それから40年後、2008年にその遠い約束は、守られると同時にひっくり返された。メリンダを含めたあの3人の声は、とうの昔に忘れられ、捨て去られていた約束を守るという以上のことをやってのけたのだ。オリジナルより30秒長いその3分3秒の新しい音楽は、イントロのわずか数秒のあいだに68年版オリジナルのすべてを飲み込み、抱きしめ、それを超えていった。60歳代以上であるはずの彼らのヴォーカルは、ある意味においてでなく、あらゆる意味において68年当時よりも若く、大きく、豊かに、そして美しくなっていた。あの頃には持とうにも持てなかった類の心、まごころを添えて。そこで起きていることは、簡単には信じられなかった。オリジナル版の不完全と未到達との約束を記憶したファンとして、2008年の<THE DRIFTER>は、世界に先駆けて発売された日本盤CDの帯にある通り、奇跡だったのだ。

「まだ行ったことのない / 場所があるから / まだ見たことのない / 夕陽があるから」――。25年ぶりに再会を果たし、40年を越えて再び届いた「ニコルスと小さな友達の輪」の奇跡は、あの時彼ら3人がしたくてもやれなかったこと ――、すなわち自分たちだけでなく、聴き手を素晴らしき DRIFTER にすることを忘れていなかった。彼らは失われたも同然だった古い約束に加えて、その遠い過去にみずからの贈り物を、プレゼントを返したのだ。

涙とはこぼれ落ちるもの、あふれ出るもの、時には止めどないものである。2つの<THE DRIFTER>はこっちを向いて、僕らに笑いかけた。そこに生まれる涙はこれから先もさすらう涙、生ある限り明日へと漂流していく涙なのだ。

中野利樹 (TOSH NAKANO)🍀

With thanks to Y.I. & M.Price.

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