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ラファエル前派。19世紀半ばに実質わずか数年だけ存在した、ヴィクトリア朝イギリスにおける十数名(出発時は有名なロセッティ、ミレイ、ハントの3人) の有志によるリバプール発の新芸術主義。当時隆盛だった古典美術至上や、産業革命による社会全般の合理化と脱自然化に異議を唱え、キリスト教絵画を含むあらゆる芸術を「より神に近い全知視点」で、より剥き出しの自然供与の発露として崇高に捉えなおすことを主眼とした。彼らは類型的な古典群の中にマンネリズムを感じ取っただけでなく、表現上の硬直したわざとらしさを、ある種の美的退却を見てもいた。古いものに取材したからといって出来上がったものが同様に単に古いもの、権威主義的なもの、大仰なものであり続けてよいのか。その問いに答えるには「古いものは完成完結し、解決済みである」という常識やテーゼをその新しい芸術自身が疑い、代替を提示する必要があった。つまり「古いものは未解決である、古いものには未知が残されている」。

数十年後の「印象派」に音楽としてドビュッシーやラベルが続いたのとは違い、短命に終わったラファエル前派には印象派のような音楽はなかった。アメリカ合衆国にロックンロールという名のエルヴィス・プレスリーが登場するちょうど100年前、大英帝国のラファエル前派はそのロックンロールを、美的表現上の一手法として大西洋越しに夢見ていたかもしれない。古いものから古くない何かを取り出すこと、語られたものから語られなかった部分を見つけ語り直すこと。ブルーズとカントリーとの融合、黒と白との融合、宿命観と称揚観との融合、停滞と飛翔との融合から、メンフィスの青年エルヴィスがそれ以前の誰よりも無数のエレメント、無数の真っさらな生を音の躍動として取り出してみせたように、ラファエル前派は中世ルネッサンス芸術の中の未消化、未解決、未参照に着目した。そのうちの半分は、過ぎ去った古き良き昔への比較的凡庸なる浪漫であったのだが、残りの半分はおそらく違った。彼らは自分たちの見つけたその未消化、未解決、未参照を、人類が続く限り永遠に神と自然とが独占的に裁き続けるある種の絶対的謎、恒久的神秘物と結び付けようと願った: この世の「夜」とである。

米インディー・ポップの中堅デュオPIPASの女性ヴォーカル、ルペ・ヌネス・フェルナンデズとCLIENTELEのアラスデア・マクリーンによる別働ユニット、アモール・ド・ディアズ(AMOR DE DIAS) の2011年処女作『STREET OF THE LOVE OF DAYS』は、エリック・サティ(ERIK SATIE) の有名なピアノ曲<ジムノペディ>の変奏である彼らのオリジナル曲<FOXES' SONG>(きつねたちの歌) で始まり、かつ、同じその曲で終わる。そこで耳にする「夜」が、その後に続くアルバムの時刻を、適切かつ自在に可変設定する。このアルバムは「この世の昼と夜」についてのポップ音楽なのだ。男声マクリーンと女声フェルナンデズのヴォーカルが曲ごとに交互に現れるそのアルバムは、ラファエル前派が夢見た神の夜と人間の昼とを行き来し、聴き手の中の21世紀初頭を、語られなかった19世紀半ばに誘う。

エリック・サティは、印象派音楽の祖であると評される。しかし彼の音楽には、その数十年前のラファエル前派的「夜」が簡素に、かつ非常に濃密に刻印されている。3篇から成る<ジムノペディ>はその最たるものであり、そこでは神の夜は余分な遊びを一切取り去ってしまい過ぎ、過分に、それに何よりミステリアスに圧搾されているとも言える。アモール・ド・ディアズの男女2人はその圧搾の音の溝、隙間から姿を表わし、彼ら自身の変奏によって、印象派<ジムノペディ>をラファエル前派に移管させる。そしてその移管先を、マクリーンによるギター・アレンジによってある時にはスパニッシュに、ある時はブラジリアンに変えもする。神の夜はそのままに、人間の昼はサイケデリックな瞑想フォークソングにもなれば、シエスタの後の浴陽ボッサにもなる。芸術史上の研究資料とかではなく、あくまでも1枚のポップ音楽として。

「昼も夜も / 昼も夜も」。表題曲<STREET OF THE LOVE OF DAYS>の中でマクリーンが繰り返す。その曲は自分の脚で立っている音楽というよりも、むしろアルバムの中心部から残りの楽曲全体に先の文句を述べ伝えるためにそこに在るように感じる。聖書の福音を牧師が述べ伝えるように。教会の隅々にまで届くようにアルバムの全体にだ。マクリーン曲では<HARVEST TIME>(収穫の時) が多くを語らんと、白昼の中に午前3時の収穫を求めてさまよい響き、続くフェルナンデズの<DREAM>は、歌詞も曲調も米エヴァリー・ブラザーズの1958年NO.1ヒット<ALL I HAVE TO DO IS DREAM>を素敵に拝借し、ドリーミーな微笑の返礼を、55年越しに贈り返す。一方<SEASON OF LIGHT>(光の季節) は、デレク&ザ・ドミノズ(DEREK & THE DOMINOS) の70年『LAYLA』中の最終曲<THORN TREE IN THE GARDEN>のメロディを陽だまりの如くなぞり、人間の昼の景色、現代のポップの人工色を楽しんだ後で、ラファエル前派コーラスへと無事に舞い戻る。

アモール・ド・ディアズの音楽はラファエル前派を示唆しはするものの、その総体は不完全である。マクリーンとフェルナンデズの2人はこの世の今日に身を置き、人間の昼間のあちこちに、過ぎ去ったラファエル前派の夢を見ているけれども、クラシカルな、正統的な音の流れを本懐とする前派音楽には、ドラムスは明らかに不向きだし、彼らの音はボッサ的リズムや現代的要素を拾い過ぎてもいるからだ。それでもその音楽には、前派の夢と憧憬とがちょうど、彼らの遺した端正で詳細な前派絵画のように漂う。先の<ジムノペディ>変奏の他に<BIRDS>や<STONE><WILD WINTER TREES>といった自然物そのままの題名曲が、彼ら2人と聴き手とを現代の摩耗からすくい上げるように拾い、舞い上げ、単純なポップ・ソングよりもさらに遠くの見知らぬ土地へと、我々を運び込む。

とりわけ<BIRDS>。わずか1分58秒のその短い夢想曲は、一種の「反音楽」として聴き手の目前を流れる。それは真夜中に暗い家の窓から羽ばたく鳥の群れを眺め、さえずりを聞き、その群れと共に黒い空を駆ける彼女フェルナンデズの秘密の独白である。その羽ばたく群れのすぐ後ろの空気を、これぞラファエル前派というべき運命的、扇情的ハープシコードと鈴とが揺らす。揺れるのはその空気だけでなく、その周りの土や砂であり、神と人間の午前3時の黒い風であり、目を見開き耳を凝らす彼女の心の視界であり、それら一切を聴くこちらの音楽的思考、その推移である。覆面吟遊詩人の前衛舞台朗読の効果音のような打楽器(ドラムスではない) が、その鈴とハープの間隙を縫うように、午前3時の闇に反響する。「鳥たちが / 窓から / 飛び立つ」。その覆面舞台の真ん中で、彼女が朗読を続ける。「何があったの? / 何がいけなかったの? / 何が?」。

WHAT'S WRONG ―― フェルナンデズの真夜中のその警句は、人間の狭き部屋の窓から突然羽ばたいた鳥たちに向けられているのと同様に、その狭い人間の家々や国々、世界とその昼間にも向いている。ラファエル前派は差し当たって、おそらくこう書き残した:160年前に自分たちが古いもの、過ぎ去ったものに嗅ぎ取った未解決と説き難い謎への眼差しと憧憬は、神の夜と人間の昼とを何とかして調和させる不断の手掛かり、恒久の触媒である。サティの<ジムノペディ>はその未解決への物言わぬ案内役、証人としてこのアルバムの最初と最後で、この世界を覆う昼と夜の背後の至るところで、様々に姿形を変えながらアモール・ド・ディアズ(日々への愛) とともに鳴り続ける。鳥の群れと人の群れとを、狭きカゴから解き放つ時を、永く数えて待ちながら。

中野利樹 (TOSH NAKANO)🍀

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