★お知らせ:12月5日(日) 渋谷ロフト9にて音楽トーク・ライブ
『湯川れい子の千夜十夜 with マイク越谷:クリスマス・音楽トークライブスペシャル:クイーン+ローリングストーンズ+エルヴィス・プレスリー大特集』に出演します★

詳細は➡ https://bit.ly/3lhUKsn

湯川さんは【ポップ音楽誕生以前から評論なさっているポップ音楽紹介の日本の至宝】@yukawareiko そして長きにわたり「ローリング・ストーンズの日本における窓口」であるマイク越谷さん。http://bit.ly/3bBWPtT
SPゲストとして日本人で最もクイーンを良く知る『元ミュージック・ライフ編集長』の東郷かおる子さんも。
スゴい回になる予感。当日会場でお会いしましょう!

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★【新宿歌舞伎町ライブにお越し頂いた皆様】★
ありがとうございました。楽しい一夜でした(^^♪
しかし3時間でもまだまだ時間が足りなかった…(笑&泣)
『音楽トークライヴ』 パート2、パート3、鋭意企画中。またお会いしましょう。
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(左:ソウル・ミュージックの大家=吉岡正晴さん @soulsearcher216
右:伝説のミキサーDJ &ラーメン企画人=OSAさん @OsamuShimizu )

★【マイケル・ジャクソン年末年始ラジオ特番のお知らせ】★
12月28日~1月5日の間、ニッポン放送系列の全国14局ネットで『KING OF POP: マイケル・ジャクソンの挑戦』がオンエア。 1時間SPのメイン・ホストはソウル音楽のベテラン評論家の吉岡正晴さん。『マイケルと長時間インタビューした日本人ジャーナリスト』として僕も出演します。
全国放送予定は追ってお知らせ。
radio








REVIEWS

daydream

1988年に公開されたマーティン・スコセッシ監督映画『キリスト最後の誘惑』の中で、ウィレム・デフォー演じるイエス・キリストは守護天使の勧めを受けて、彼自身が救い出すまではどうしようもなく罪深き娼婦であったマグダラのマリアと愛し合う。マリアはすぐに身ごもるが、風の強いある晩、神の御光明に導かれて天国に召される。帰宅して悲しみに暮れるイエスのもとを天使が訪れ、マリアの中の新しい命は別のもう1人のマリアに ―― イエスがかつて墓から甦らせた友人ラザロの妹であるマリアに ―― 無事授けられたと告げる。ベタニアのマリアである。

その後天使の勧めでイエスはマリアの姉マルタとも結ばれ、彼は2人の妻と6人の子供に恵まれる。これが地上の幸せなのだ、とイエスは思った。しばらくして、かつての迫害者サウロが真の信仰に目覚めた大伝道者パウロとなり、人々に「イエスの奇蹟」の説教を施しているところにイエスは居合わせ、「私の名を使ったその話は、作り事のうそっぱちに過ぎない」と激しくパウロを責める。自分はヨセフとマリアの間に生まれた、ただの人間の息子であり、救世主でも神の子でもないのだと。パウロはそんなイエスに「がっかりした」と告げる。「でもおかげですっきりした。私のイエスはここにいる貴方ではない、とはっきりしたのだから」。

歳月が流れ、老いて病んだイエスのもとを、かつての弟子たちが訪れる。その中にあのユダもいた。「あなたを信じ愛していたからこそ、仰せの通りあなたを裏切ったのに、あなたはぎりぎりのところで怖れをなして逃げ出した。裏切ったのは私でなく、あなただ」。「そうではない。違うのだ」とイエスはユダに言う。天使が現れて私を十字架から救ってくれたのだと。傍らに立つ天使の方を病床から見やるイエス。するとユダは静かに言った。「天使 ? あれが ?」。次の瞬間そこに見えたのは守護天使でなく、燃えさかる赤い炎である。天使は、ただの悪魔だった ―― 。

公開前からアメリカ中の (それにある程度はキリスト教文化圏の国々の) 国論を二分するほどの賛否両論に包まれたスコセッシの映画は、ある保守的宗教団体が、映画の製作費をそっくり支払うからフィルムをよこせと訴えたことで、お墨付きの「世紀の問題作」となった。「ただちに焼き捨てる」。フィルムを買ってどうするのか聞かれて、彼らは言った。「こんなにキリスト教を激しく冒涜する犯罪的映画が作られた理由はただ1つ、制作会社であるユニヴァーサルの会長がユダヤ人だからだ」。

結果フィルムは焼かれることなく残り、おかげで僕らは、上の長い物語場面を見ることが出来るようになった。ニコス・カザンザキスの同名小説にスコセッシ渾身の映像化を加えた『最後の誘惑』のハイライトはまさに先のシーンであり、それはイエスがゴルゴダの丘の十字の上で、遠ざかる意識の中から映し出す、幻想と夢想のハイライトである。

冒頭の説明のうち、実際に聖書の表記と合致する部分はマグダラの救済とラザロの蘇生、サウロの改心の3つだけだが、にもかかわらず、その夢の全体は「作り事のうそっぱち」には見えない。この映画の枠内では「ただの人間の息子イエス」は、あの超人間的イエスとまったく等距離、等価値であり、カザンザキスとスコセッシはその点を尊重し、敬意を払い、両者の均衡と矛盾の間にこそ、あの大いなる神秘性を見ている。観客にもその神秘性が、しばし納得できるような気がする。理解は完全に出来なくともだ。『最後の誘惑』は長い、ひとつの巨大な夢を観る者に差し出す。しかし、その夢の種類は、観る者によって異なる。

『最後の誘惑』から5年後、その夢を悪夢 (ナイトメア) として受け取った男がゴルゴダの丘で、半年後の自殺のための予行演習をした。その男はカート・コベイン(Kurt Cobain) と言い、引き連れたバンド一行の名はニルヴァーナ(Nirvana =涅槃)、予行演習の模様は、彼らの最後の現役音楽を収めたアルバム『In Utero』(胎内回帰) からの最初のシングル曲<Heart-Shaped Box>のPVとして残されている。シアトルから100マイル離れた人口2万人に満たない小さな町アバディーンの夢見る少年だったコベインは、その時点ですでに死んでいたパンク音楽に初めて触れ、脳天を打ちのめされた。1983年のことだった。

すぐに友達を入れ換え、バンドを組み、ツアーに出た。無料街頭店先ツアーである。80年代の後半にインディーズ・レーベルと契約する頃には、ニルヴァーナはすでにワシントン州で1、2を争う人気バンドであり、その涅槃が州境を越えて広まるのは時間の問題になっていた。彼らの音楽は終始重苦しく、陰うつであり、猛スピードで突進するハイエナであると同時に地中のもぐらのようであり、痛々しいほどにメロディアスかと思えばその反面、単調きわまりない詠唱でもあった。それは1度死んだパンクの蘇生、よみがえりに他ならなかった。そこにイエス・キリストは介在していたのだろうか。答えはノーである。イエスには介在の必要はなかった。カート・コベイン自身がイエスになってしまったからである。

それはコベインの望んだことではなかった。そもそも彼はパンクを「蘇生」しようとしたのではない。彼は単に、そこに自分自身の声を見つけたに過ぎなかった。NOを言う声である。自分の目に映る世界に向けてNOを叫ぶことが、かつての夢見る少年に大いなるYESを与えたのだ。そのNOとYESの反復・増幅作用がやがてきっと、目に映る世界の放つ誘惑的で支配的な最大のYESに不覚なる変化を起こさせる ―― 、それがかつて死んだパンクが交わした、最も奥深い約束の1つであった。

けれどもその約束は、実は最も罪深い約束でもあったのであり、コベインは約束の罪深い面を見ようとはしなかった。かつての夢見る少年は、パンク青年になってもあまりにナイーヴであり、自分のやりたいことをやれるという喜び以外のものはすべて見えなかった。見ようとはしなかったのだ。

彼がパンクの蘇生に手を貸し、パンクのイエス・キリストに祭り上げられたのはそこである。『最後の誘惑』の中で十字架処刑を翌日に控えたイエスが、漆黒の夜空に向かって嘆願する ―― 「神よ。私はあなたに、この私を選んでくれと言ったことは1度もありません。なのにどうして私を、このイエスをお選びになるのですか」「それ以外の道はないのでしょうか。いくらあなたの差し出す杯でも、私には飲めません。お願いです。どうかその杯をお引っ込め下さい。どうか …」。懸命に祈るイエスは涙に濡れる。観客は生身の、等身大のイエス・キリストをそこに認め、彼の生涯と偉業と伝説をより豊かに、より奇蹟的に、より悲痛なものにする。

スケールこそ違え、時代こそ違え、コベインのイエスも同じように嘆願した。91年のメジャー・レーベル・デビュー作『Nevermind』の未曾有のヒットの後である。このアルバムはアメリカ国内だけで1200万枚以上を売上げ、今も売れ続けており、それは新しいオルタナ・パンクのバイブルと化してしまっている。

人類史上、1つのパンク音楽がこれほどの凄まじい支持を集めたことは1度もなかった。これからもないとほとんど断言できる。彼がカート・コベインであったからこそ、1200万のNOは受け取られ、反響したのであり、そうでなければそれは起こらなかった。確かにファンというものは気まぐれで身勝手なものだが、だからといって、僕らはそう安々としょっちゅうキリストを生み出すわけではない。

けれどもそこに罠が、<Heart-Shaped Box>の言う「磁石のようなタールの落とし穴」があった。PVの中で天使の三角頭巾が落ち込んで染み込ませたタールの罠である。コベインは結局、1200万のNOを信じなかった。彼にとって、それほどに多数の耳元に届くようなNOというのはただ単に1つの美的失敗を意味したに過ぎず、1つの美的失敗は1200万のYES、1200万の称賛と崇拝、1200万の通貨を生み出しただけだった。その成功の失敗はコベインを金持ちにしただけでなく「かたくなな神の子」にもしてしまい、突然コベインは、パンクの一演奏者からパンクの唯一の求道者にされてしまった。ただの人間の息子にとどまることは出来なかったのだ。

とどまることを許さなかったのは神でも運命でもなかった。彼の説教に耳を澄ませ、そこに何かを見つけたはずの1200万のファンが許さなかったのだ。落とし穴の正体はこれである。1200万の聴き手は「そこに何かを見つけてしまったがゆえに」許さなかった。そのどす黒いタールの罠から再び這い出すためには、2度とその落とし穴に落ち込まないためには、そのタールをすべて飲み干してしまえるほどに強靭でなければならない ―― 求道者コベインの下した結論の強靭さの証、その理不尽さの証が、アルバム『In Utero』と<Heart-Shaped Box>PVのあちこちに見てとれる (そのPVの所有権を今現在持っているのは、あのユニヴァーサルである!)。その2つが言わんとしたことは「オレは今から気が狂うからよろしく」ということであり、いかにも求道者らしく、コベインは自分の言葉に最後まで責任を持ったのだった。

真紅の夕闇がすべてのものを着色し、真紅のナデシコが不気味に咲き乱れる<Heart-Shaped Box>のゴルゴダの丘で、自分でハシゴを昇って十字架に張り付く痩せこけたイエスは、『最後の誘惑』上のどこかにいるコベインであり、十字架にまとわりつく不吉なカラスの群れは、彼の望みの手助けをし、楽しげに一緒に歌うことさえする。悪い冗談かと思えるほどに自虐的なコベインの顔つきは、この曲自体の顔つきと同じである。ニルヴァーナがそこで作り出しているサウンドは、にじり寄る天変地異であり、はちきれんばかりに肥満した、血管と内臓むき出しの堕天使のグロテスクな足音は、その巨大な轟音の中に吸い込まれる。

不吉なイエスは今や不遜なイエスでもあり、暇を持て余した守護天使はスキップし、胎児の実を付けたゴルゴダの木をじっと見、その実をねだる。全てのイメージはどこにも行き着かないが、それは行き着かないように設定されているからである。それが「ハート型の箱」に入っている神の計画書の中身であり、神の子であるイエス以外には、その箱は空っぽにしか見えない。曲の後半で冒頭の痩せこけたイエスは青白い病室に横たわり、よみがえりのためのエネルギーを胎児の点滴から得る。一方、ニルヴァーナと守護天使はハートの箱の内部へと入っていき、その小さな赤い箱部屋で代わるがわるくつろぎ、ただ時間をつぶす。

その2つの部屋は、彼らの出身地アバディーンからほど近いワシントン州スノコルミーを舞台にした、あの『ツイン・ピークス』の赤いカーテンの部屋とホワイト・ロッジだったかもしれない。そうならば、カート・コベインが受け取った悪夢は「ドッペルギャンガーとしてのイエス・キリスト」だったのだろうか。<Heart-Shaped Box>は今も空っぽのままであり、何も答えてはくれない。そこに悪夢があると告げるだけである ―― オレは、気が狂っただけのまともな人間にすぎない。あの世に行ってもまだキリスト役をやれと言うつもりかい。

カート・コベインの殉教から6年後、ある女性が彼の吐き出した悪夢を白昼夢 (デイドリーム) と受け取り、同じゴルゴダの丘に立った。しかしその女性は、丘の上にずっと立ったままでいられなかった。見えないギブスを身に着けていたからである。椎名林檎のシングル<ギブス>は彼女の最高作ではないかもしれないが、<Heart-Shaped Box>の映像モチーフを一部流用したこの曲のPVは、にもかかわらずキャリアで最上のものだ。なぜなら、その永久に夜を迎えることのない薄暮のゴルゴダの丘に、彼女は監督の意図とは無関係に、結果的にマグダラのマリアとして登場しているからである。

曲中、彼女が気軽に歌詞に用いたコベインへの無意味な言及 (「だって / カートみたいだから …」) がこのPVの中では意味を持つ。イエスに救われたことを、なぜか逆に悔いるマリアがそこにいるのだ。

椎名林檎版のマグダラにとって、人の一生とは寄せるばかりで決して返さない波であり、愛とは「常に一心同体であること」の言い換えである。絶えずその瞳に映っていなければ、手を伸ばして触れていなければその愛は消えてしまい、愛が消えればマグダラはすぐに死んでしまうのだ。

歌詞中の「I 罠 B wiθ U」の「罠」の表記はプリンス(Prince) 風の言葉の洒落だとしても、<ギブス>のマグダラがその罠へと、あのタールの落とし穴へとすすんで落ちたがるということは、洒落でなく真実である。イエスに出会うまではその肉体に7つの大罪を抱えた罪深き娼婦であったマグダラは、すみれ色の布で出来た衣裳をまとい、リッケンバッカーのギターをかきむしりながら、愛する彼女のイエスに嘆願する。「明日のことは / わからない / だから / ぎゅっとしててね」。

ぎゅっとすること―― 林檎版のマグダラにとって、イエスの救いがなければ自分の生は性と同じであり、生きのびること、息をしていること自体が罪である。<ギブス>の中ですみれ色ではない別の花柄の服を着たマグダラは、その「性のマグダラ」である。ぎゅっとするとマグダラは救われる。しかし救ってくれたあとも、彼女はイエスにそこにいて欲しい。<Heart-Shaped Box>と<ギブス>の両方に仕掛けられたゴルゴダのタールの落とし穴に、林檎のマグダラがいつでも落ちる気でいるのは、そのためである。私が救われれば、私のイエスはどこかに行ってしまう。私が穴に落ちれば、イエスがまた来て救ってくれる。いつまでも、ぎゅっとしててくれる。かつて彼女を金で買った民衆たちの目には決して見えない、深愛のギブスがそこにある。

そのギブスはイエスを縛ると同時にマグダラ自身をも縛る。できることなら、彼女はイエスと一緒に身動き出来なくなりたい。それは実現不可能な夢であり、幻影としての白昼夢に過ぎない。しかし1200万のNOを信じなかったカート・コベインのイエスのように、椎名林檎のマグダラは、自分のただ1つの願いがどうやっても叶わぬ夢であるとは信じない。信じることが出来ない。出来ないマグダラは、ただ盲目的に、よりきつくイエスと自分をギブスで縛り、動けなくなった彼女は、大木が朽ちるようにPVの後半に、どさっと倒れる。<Heart-Shaped Box>の胎児の木がどさっと倒れるように。私なら倒れても平気。だけどイエスは、私がきつく縛ったはずのイエスは、いったいどこに行ったの ――。 

というわけで、<ギブス>の音楽は結局<ギブス>の映像の力に、最終的に応えることは出来ない。その音楽は自らが作り出したヴィジョンに、自分自身の動力に最後に飲み込まれる。『最後の誘惑』でマグダラのマリアを演じるバーバラ・ハーシーが魅力的であるのと同じ程度に、<ギブス>でマグダラを演じる椎名林檎は魅力的である。マグダラを描いた絵画はこれまで多数残されているが、そのうちの少数派のほうの、ふくよかではないマグダラの絵に<ギブス>の椎名林檎は似ている。マドリードのプラド美術館所蔵ホセ・デ・リベーラ作『改悛するマグダラ』 (1640-1641) である。

もちろん、それはただのそら似にすぎない。けれども、多分これだけは言える:ただ通り過ぎるだけでなく、その際に人々に実際に何かをもたらすような類の歴史は、その歴史を作った当人のつもりとは無関係に進むということだ。神がほかの誰かでなくイエス・キリストを十字架に選んだ理由、カート・コベインが1200万のNOを信じることのないまま命を絶った理由、椎名林檎が深い考えもなく歌詞としてそのコベインを登場させた曲のPVで ―― 映像のモードをコベインから直接に借りたまさにその曲のPV上で ―― 我知らずマグダラのマリアを無意識に演じている理由はそういうものとして、あとに残された者の前に新しい顔、新しい道、新しい物語を指し示す。

それはともかく、あのハートの形をした箱は、いま一体どこにある?

中野利樹 (TOSH NAKANO)♥

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