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chocolat
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発売から10年以上が経過しても、1枚のCDが頭にこびりついて離れないことがある。例えばそれはCHOCOLAT(ショコラ)の<ベースボールとエルビス・プレスリー>という曲で、彼女は自分で詞を書いている。この風変わりな題名をもった音楽は、この先の10年もずっと長生きすると思えるのだ。しかし確かに題名は風変わりなものの、全体の基本的な曲調は、散々もてはやされたと思ったら単にもう1つの流行を作ったスウェーデン・ポップ基調のものだ。だからそう、そんなに頭にこびりつくはずはないのだ。この軽やかで実際にも軽い音楽の、どこが一体そうさせるのだろう。

理由の1つは、この音楽の素晴らしい録音に起因している。各種のエコーはどこまでも響き渡り、音場は四方に広がる。普通のCDが部屋で鳴っているとすれば、この曲は部屋のスピーカーからこぼれ出して家の全体、街の隅々にひろがる感じがする。ストリングスの残響がもたらす固有の視野は、その外側に向かってさらにこだまする。背後にはさわやかな曲調からは予想外な高速で力強く、タイトなドラムスのビートがあり、それは曲の最初から最後まで止まることがない。

「小さな世界 / 小さな瞳で見てた」「大きな手に / 包まれていたの / いつも」。<ベースボールとエルビス・プレスリー>はこんな具合に始まる。この曲の歌詞はどの部分もいにしえの俳句のように、あるいは聖書外典のようにぴたりと世界をとらえ、静止させる。「大きな手」 はママの手だろうか。そのママをさらに包んでいたのは、エルビスの手なのだろうか。説明されていないだけ、間接的言及には限界がない。そこに生まれる自由連想は、古びた映写機に映るフィルムのように不完全なものである。コマ数や解像度はデジカメに遠く及ばず、黒かったり白かったりするバーノイズも避けられない。焼き増しのきかない写真でこしらえたパラパラ漫画のようなものだ。

そのフィルムが、自由連想が重要なのは、それでもなぜ人はそれを見たがるのかという点にある。この曲の場合は、郷愁やなつかしさが1番の理由ではない。連想の自由を奪わずにそのままにしておくからだ。これといったポップについている歌詞には、大なり小なりそういうところがあるけれども、<ベースボールとエルビス・プレスリー>はそれをもっと押し進めていて、少女が「わたし」と名乗らないだけでなく、あなた、彼、君、彼女、それにポチでさえ登場しない。姿を見せるのは「ママ」だけであり、したがってそれがショコラのママであるのか「母なるもの」であるのか、聴く者には特定しえない。どちらでも正解なのだ。なぜなら、この音楽が連れて行ってくれる世界の中では、前者は常に後者に含まれるからである。

小さな瞳の少女とママの両方を包み込んでいたのは、ベースボールとエルビスの魔法だったことが、次第にわかってくる。魔法の箱、魔法のおもちゃ。ベースボールとエルビス・プレスリーが少女に与えてくれたおもちゃは、何よりも「ひとつの世界」だったとこの歌は言っている。少女はその世界の中で大きくなっていった。小さな瞳のショコラは、両者の中にひとつの永遠を、未来永劫を見ている。それは「アメリカ的なるもの」が彼女に与えた永遠、記号としての至福千年である。その記号には1人の少女の世界観を左右し、決定づける大きさと魅力とがあったのだった。

<ベースボールとエルビス・プレスリー>は、その記号としての永遠を行き来する。それを聴くことが、その永遠を垣間見ることに転じるのだ。「ベースボールとエルビス・プレスリー / 魔法は終わる / おもちゃの箱を閉じる」。その永遠が彼女に夢を見させ、大人にした。その永遠のアメリカ的なるものに、こんな上等な贈り物を返すことのできる大人にだ。「眠れない夜 / やさしく歌ってくれた」のは、エルビスの<LOVE ME TENDER>だったのだろう。そのエルビスのやさしい子守歌に揺られて、少女は 「いつの間にか / 1人で夢見ていた」。大きくなったらエルビスに会えるんだ。

それに続くハーモニカのソロ・パートは、だから悲しく、痛ましい。そのハーモニカの間に、彼女は大きくなる。ショコラは、大好きなエルビスが天国に行ってしまったことを知る。そこにちょうど、あの力強いドラムスが一からまた力を振りしぼり、彼女を勇気づける。乗り越えさせる。そこには物心つくことの残酷さ、初めて現実世界と向き合うことの畏れと悲しみ、それを克服することがもたらす誓いと敬虔とがある。それを耳にする僕らの心に、その時小さなかすれと涙があるのと同じだ。もしも気分さえぴったりならば、その間奏は彼女と聴き手の両方に、光明を与える。

ハーモニカは終わる。ショコラはそのハーモニカを回想できるまでになっている。「ハーモニカ鳴った / 記憶のかなた / 遠く遠く」。心配は無用だった。彼女の声は透き通ったままであり、依然として夢見たままである。その歌声はたとえどんなに飾り気がなく、素人的なものに聞こえようとも、本当にその声が持つ純心と聡明さに匹敵するものは少ない。その声は、かつてどこかで聞いたことがある気はするものの現実にはその機会のなかった声、夢の中でだけ耳にすることの出来るはずだった声である。それは天国のエルビスが地上に放ったキューピッドの声、そのキューピッドが地上の夢見る子供たちに読んで聞かせる、絵本のキャプションの声なのだ。

曲が進んで行くにつれ、空高く遠くへ飛んで行くにつれて、ショコラのヴォーカルは二重から三重になり、そこにある夢の量も深く大きく膨らんでいく。そこには1人の人間に抱え切れないたくさんのベースボール、たくさんのエルビスがある。ドン・ヘンリー(DON HENLEY) が<THE END OF THE INNOCENCE>の中で歌った「僕らの心の1つ1つにある / 同じひとつのスモール・タウン」がその先に見える。どこでもないけれども、同じひとつの場所 ―― 。

おじいちゃんから孫までが一緒に観に行ける場所としてのベースボールは、実際には目にすることのない理想の、完全なるファミリー像を映し出す一方、スポーツの一競技形式としてのベースボールは、集団と個人とを統合し、同時に両者の性質の違いをくっきりと明らかに識別してみせる。個人は、集団にあって初めて個性たりえるのだ。それは何度も消し去られ、その度に何度も取り戻そうと闘われてきている、アメリカの究極の理想上の共通理念である、個人の完全自主独立と共同体社会との調和的共存のイメージを喚起させもする。おそらく、だからこそ最上の場合、ベースボールは野球ではあり得ないのだ。映画『FIELD OF DREAMS』(『フィールド・オブ・ドリームス』) の日本版はないのである。

エルビスの場合には、それは「誰でもないけれども、同じ1人の人物像」であるのかもしれない。その最も気ままで複雑な大衆文化記号としてのエルビス、「アメリカ的なるもの」の最大公約数的アイコンとしてのエルビスを<ベースボールとエルビス・プレスリー>は記憶し、そうするだけでなく抱きしめている。<べ―スボールとエルビス・プレスリー>が見事なのは、その作業をエルビスの名前以外の一切に触れることなく、やってのけているからである。

エルビスについての曲、エルビスに言及した曲はこの世に星のようにあるけれども、そのほとんどが彼の経歴上、生涯上の具体的な何かに触れている。したがってそれらの曲の多くは、良くも悪くも時間の枠、出来事の枠が固定されてしまう。永遠がそこに閉じ込められてしまうのだ。この曲はそこから抜け出ている。それはエルビスとベースボールとを通して「アメリカ的なるもの」が人に与えるものがどんなものであるのかを映し出す、空飛ぶ魔法の映写機である。その映写機はビートとストリングス、ショコラのキューピッド・ヴォイスによってどこまでも、どこへでも飛んで行き、各人に合わせたお気に入りのフィルムを上映してくれる。

「悲しいときに / 思い出すこと」「忘れるなんて / 出来ないこと」。大人になった少女のショコラは、ベースボール、それにエルビスがいなければ、自分は今の自分じゃなかったということを忘れることはない。けれども彼女は「エルビスの事を決して忘れずに」大人になるのではない ――「おもちゃの箱を / 閉じても /夢は続く」。夢見ることをやめないショコラは「エルビスと共に」大人になるのだ。ずっと一緒なら、思い出す必要はないからである。それがエルビスが、この音楽が彼女にくれた魔法であり、そのエルビスの永遠に夢見る少女が内緒に交わした、指切りげんまんである。夢は、見続ける者にとって夢ではない。見続ける者なしで、夢が夢のままでいられないように。

エンディングのリフレインを繰り返しながらも、この音楽はすぐには終わらない。それは映写機が終わったあとのフィルムの余りである。そこには様々な残像が現れる。ショコラが思い浮かべるこのエルビス、あなたが思い浮かべるあのエルビス…。僕にも自分なりの残像が見える: 笑顔でハンバーガーをパクついている色白の人物 ―― 後期のエルビス ? それにしてはちょっと細い。太る前のエルビス ? このシングルのジャケットのショコラである。いい曲をありがとう。

中野利樹 (TOSH NAKANO)🍀

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