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tomorrow never knows hello again
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MR.CHILDRENのキャリア最大のヒット・シングル<TOMORROW NEVER KNOWS>は、1994年の秋深まる11月に発売された。現在までの売上総数は約280万枚。MY LITTLE LOVERのキャリア最大のヒット・シングル<HELLO AGAIN -昔からある場所->は、翌年1995年の8月の晩夏に発売された。現在までの売上総数は約180万枚。この2つの曲が当時語っていた事、2017年の現在語っている事は、現代日本の芸能音楽の歴史上、ずっと特異なままだ。2曲は今も、以降の日本のヒット向けポップ音楽の多くが立ち入れない不可侵の領域に、未踏の場所にある。というのも、それら2つのヒット曲は、主流J-POPの宣伝と統計にまみれた、売上げという名の客観の闘技場の真上を照らし出した、感性による主観のファイヤーワークス、打ち上がった後にそこにそのまま消えずに静止する、私考と試行の、志向と至高の特殊な花火だったからである。

<TOMORROW NEVER KNOWS>と<HELLO AGAIN -昔からある場所->は、人々を購買に向かわせると同時に、買って聴いた後の人々を、不意に立ち止まらせる性質を持っていた。ある時は美的に、ある時は文字通り物理的にだ。「先を急ぐ時に敢えて立ち止まる人間が、その後の前進をそっと手にする」とレイモンド・チャンドラーはかつて言ったが、2つのメガヒット曲は爆発的に売れ、闘技場の務めを果たしながら、1993年のバブル崩壊で慌ただしく先を急ぎ始めた日本の止まらぬ人々と、止まらぬ人々の波に自動的にさらわれ、引きずられ、意に反してその波に巻き込まれてもいく人々の我々を、束の間、折々に静止させた。「この曲って…」「おれは…」「わたしは…」。音楽を通した自己との感情対話。しかし、この作用は他の日本のポップ音楽にも数多く存在する。<TOMORROW NEVER KNOWS>と<HELLO AGAIN -昔からある場所->はその自己対話を細分化した。自分自身 ―― 通常は4文字1セットであるこの語句を「自分」と「自身」とに分割したのだ。

2つの曲が切り開く感情と感受の美的領域の内側において、「自分」とは「現実にはこうである自分、他者からはこう見えているであろう自分」であり、「自身」とは「こうありたいと願う自分、他者からは見えていないであろう自分」を意味する。そこでは自分とは、実地と実際が1日の1時間ごとに勝手に報告してくる、目に見え過ぎる不可避の食傷であり、自身とは、理想と願望が1日の終わりに溜め息を漏らす、目に見えなさ過ぎる虚脱の重力である。

<TOMORROW NEVER KNOWS>は自分を自身に、不可避を虚脱に、虚脱を脱出に変えようと苦闘する、一個人の私的で詩的な独白として始まる。この曲のイントロは、短いながらもくっきりとして滑らかな、切れ目のない2段構成になっており、開始18秒までの鉄琴とピアノのメロが「この曲はあなたが思っているような曲ではありません」とまず告げる。その鉄琴の音色は、学芸会で必死に練習の成果を披露する小学生のように、どこかつたなく、懸命で、尊い。主人公の遠い童心が聴こえるかもしれない。その18秒は、聴く者すべての頭上の、雑踏のオルゴールである。

続く10秒間の低くうごめくピアノが、その「つたなく尊いオルゴールの例外告知」を、聴き手の第2のマインド=童心から遠く隔たった大人の、社会的な、現実上のマインドに体内浸透圧のように染み込ませ、そのマインドの奥の審美領域に、低く、深く、色濃く、例外告知を刻印していく。作者兼ヴォーカルの桜井和寿が最初の1語を歌い始める前に、「この曲は他とは違うかもしれない」という期待への準備が、聴く者の聴覚調節を普段よりも一段研ぎ澄まさせ、例外の音楽は、ゆっくりと言語の響きを始める。

とどまることを知らない時の中で
いくつもの移りゆく街並を眺めていた
幼な過ぎて消えた帰らぬ夢の面影を
すれ違う少年に重ねたりして

その4行は、歌詞の最初の4つである以上に、ヨーロッパのポピュラーな詩吟形式であるスタンザ、その最小形であるクアトレイン=4行詩だった。伝統的なクアトレインのように韻は踏んでいないながらも、他の曲では聴くことの出来ないその場の絶対的な雰囲気が、小林武史のアレンジと桜井和寿の歌唱を通して、その4行を霧のように分厚く覆い、靄のように包み、抵抗することの出来ないこの世の真理のように、4行は、4行で、4行以外のすべてを語っていたのだ。

もちろん、それは実際には「すべて」ではない。けれどもその言葉と声と音の複合体は、聴く者の刻印に十分なすべてを、静かに、確実に運んだ。時間という外的な条件絶対の中に生まれる内的な人間相対、内省という精査の中に生まれる妥協、衆人という無慈悲な通過の中に生まれる自己検閲。各行はそれぞれの重量で起承転結を担当し、桜井和寿の、現在の彼よりも抑揚が淡いがゆえに陰影をより一層増すヴォーカルが、4行全体の起承転結の中に1行ごとの個別の起承転結をさらに歌い、聴く者はとどまることを知らない時の流れを感じ、受け止め、沢山の街並を見送り、不首尾の過去に戻り、すれ違う少年と一緒に、またもう一度現在に戻る。素早く、ゆっくりと。戻った最終的なその場所が、たとえどんな場所であれである。

「重ねたりして」が、もしも単に「重ねていた」だったなら、すれ違う少年の姿は、僕たちには最後まで見えなかったことだろう。「重ねたりして」は主人公自身の重圧を肩から下ろし、自らの熟考を、独りそっとねぎらった。そこには機械的な「重ねていた」よりも余白が、余韻が、体温があったのだ。飾らなく飾った桜井和寿の等身大の、今よりも無名の声、プロよりも一般の声は、自省は永遠にするものでも、否定は永遠に続くものでもない、人生は全部一度にしなくたって構わない、そう告げるかのように曲の余白を余韻で満たしていった。「勝利も敗北もないまま / 孤独なレースは続いてく」。その音楽の、傷を隠した体温は、実際にそう言っていたのだ。

始まりは小さな、つたない18秒だった<TOMORROW NEVER KNOWS>のオルゴールはやがて2分になり、3分になり、この曲の印象的なPVで桜井和寿が踏みしめる、オーストラリア グレート・オーシャン・ロードの360度の断崖絶壁にたどり着く。それからその音楽は、違う言葉で綴った4行詩の立体のリフレインに、シャッターを開いたままのカメラが映し出す、複雑で繊細な、言葉にし難い流線形の時の残像になっていった。流れるその複数の時が、オルゴールを終わりに向かって進めながら、曲の真ん中に引き返して刻印にもう一度交差し、中心を離れぎわに射抜く。それは何という金言なのだろう ――

人は
悲しいぐらい
忘れてゆく 生きもの
愛される喜びも
さみしい過去も

<TOMORROW NEVER KNOWS>の発売当初の、オリジナルの8センチシングルCDのジャケットには、人の生涯全体における1枚の写真を表わすかのような黒い縁取りをあしらった、ベージュの土と大地から羽ばたく1羽の白い鳩が描かれている。白い鳩。旧約聖書の有名な「ノアの方舟」で、1度目は収まらぬ洪水で舞い降りる所がないまま方舟に帰還し、2度目にオリーブの実をくわえて戻ってきた、あの白い鳩である。オリーブの実、それは方舟の中の人々にとって、洪水が引いて大地がちょうどよい具合に乾き、木々が無事に再び果実を実らせた証し、「生きる知らせ」だった。

心のまま / 僕は行くのさ / 誰も知ることのない / 明日へ ―― その白い鳩が、直後のサックスの間奏に姿を現わす。20秒の一陣の風が、聴く者1人1人の個別の1羽の白い鳩、全体の千の白い鳩を一斉に羽ばたかせる。純白の群れは昨日の黒色を見送り、今日の赤色を引き連れ、明日の黄色を大空に描く。その黒と赤と黄は、それらの混合色=セピアからの使いである。20秒のサックスの疾風が吹き届ける最深の刻印は、そのセピアが過去のみでなく、現在と未来とを元々含んでいるということだ。

その淡い茶褐色は、現在から見た過去への配色ではなく、大空のように人生の高台から全体を俯瞰しようとする際に見える色であり、真の色彩を実感するには、ある時どこかに登らなくてはならない。自分よりも高いどこかに。一陣のサックスは、純白の群れとともに去る。目に映る街並の景色はもう一度変わり、人々は最初の4行詩の冒頭「とどまることを知らない時の中」に戻っていく。曲の始めに聴いた時には存在しなかった配色が、聴く者の聴覚の中の視覚をゆすぎ、すすぎ、乾かす。その俯瞰の配色は、物事がうまく運んでも運ばなくても変わることのない、その人個人を表わす固有の原景を着色する際の発展色と回帰色、その両方である。

再び僕らは
出会うだろう
この長い
旅路のどこかで

TOMORROW NEVER KNOWS=明日の事は、誰にも分からない。当の明日自身でさえも。ビートルズの1966年の傑作『REVOLVER』最終曲から命名された、当時の英語の慣習上では反文法的表現であり、先生に0点をもらう言い回しだったこの警句は (TOMORROW=明日は意志を持っていないため、KNOWS=知るという意志行為はそもそも行えない)、1966年や1994年以上に2017年の現在において、より多くを語り与える時空のキャッチコピー、時代の見えざるスローガン、生に向かう人々の銘として、今もそこにある。<TOMORROW NEVER KNOWS>は、意志を持って劇化され音楽化されたKNOWSとして昨日の日本を駆け、自分と自身を映すセピアの俯瞰、原景の生きる知らせとして、今日の日本の街を歩いている。すれ違う少年の姿を、雑踏のオルゴールに探して。


<HELLO AGAIN -昔からある場所->の「自分」と「自身」は、<TOMORROW NEVER KNOWS>のように互いに引き合う磁石の両極、自己を切断再生させる二律としてではなく、最初からオスメスのソケットでつながれた、着脱可能な内省の一体型ユニットとして姿を表わす。イントロの藤井謙二の笑わない実直なギターは、まるで計量カップで計ったかのように各トーンを同じ感度、同じアクセント、同じパーセントで弾き、逆らえぬ時間の正確無比な無慈悲の刻みを伝え、その無慈悲の内側でしか生きられない人間の弱さと小ささを暗喩する。

「雨はこの街に / 降り注ぐ / 少しのリグレットと / 罪を / 包み込んで」。<TOMORROW NEVER KNOWS>で描かれた、時間という宇宙的絶対の中に生まれる人間の個人の相対が、形を変えてここでも描写される。AKKOが歌う主人公の「僕」は、その雨に過去と未来を同時に見ている。別れで終わった大切な恋愛への追想は、それを包む雨によって「少しの」リグレットに転じ、緩和され、「僕」はそこからソケットを外し、自分の外側に思い切って出ていく。ただし、そこはまだ依然として、彼の内側の中の外側にしか過ぎない。「痛む心に / 気づかずに / 僕は / 1人になった」。

別離がいかに人を痛めるのか、独立がいかに人を鍛えるのかを、<HELLO AGAIN>は1小節ごとに劇的に音楽化していく。けれども「痛む心」が「僕」の痛みではなく「僕と君」、双方の痛みであると知るまで、彼は本当には外側に出られない。1コーラス目の最後の行で、その気付きへの手がかりが示される ――

君は少し泣いた?
あの時
見えなかった

オスメスのソケット=それは一義的には文字通りに男女の恋愛のソケットなのだが、<HELLO AGAIN>は2コーラスの間に、その文字通りの意味から翔び立つ。飛翔のエンジンは「僕」として歌うAKKOの、技巧を始めから脱ぎ捨て、2度と同じようには歌えない一か八かの、限界ぎりぎりの、きわどい綱渡りの歌唱にある。そのむき出しの、全裸の声は、歌手に元々求められる基本的なテクニックのことごとくを停止し、無用にし、パッションとアタック、意思と偶然だけを伴ったまま破れ、壊れ、崩れながら、限界の前進を続ける。

<HELLO AGAIN>での声のもう1つの特異性と素晴らしさ、それはAKKOのヴォーカルに含まれる「息音」である。<HELLO AGAIN>の5分11秒には、洋の東西を問わず、過去のどのポップソングより多くの「息音」が録音されている (ただし、セルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキンの世界的ヒット<Je T'aime>[ジュ・テーム、1969年] はたぶん別。その曲のたっぷりの息音は、そう、ベッドルームでの息音だ)。人間の声帯が音を発するのは、声と息の2種類によってなのだが、一般にヴォーカリストは、そのうちの声のみを中心に発声するため、息音はその声をオブラートする装飾品、その声のアクセサリー、特殊効果的要素である場合が多い。

AKKOは違った。彼女の<HELLO AGAIN>における全裸のヴォーカルでは、声と息とは、まったくの同等である。彼女はこの曲で、息音をほぼ意図せずに出しているのだ。訓練を積み、経験を重ねたプロフェッショナルのヴォーカリストであればあるほど、こんな芸当は、むしろ不可能に違いない。その不可能をポップの領域で可能に変えていく、技量を捨て意志と意識のみに従う彼女の捨て身の無二の歌唱、それが<HELLO AGAIN>の声と息とを痛々しく、切実に、美しくかき混ぜ、その声と息を1つにも2つにも、それ以上にもし、そこで歌われる僕と君のドラマをリアルに描き、焼き付け、<HELLO AGAIN>の全体を、リアルに映写する。

「自分の限界が / どこまでかを知るために / 僕は生きてるわけじゃない」 ―― 自分の内側からどうしても出られないまま、彼は己の限界を思い知るほどに充分苦しんだのだ。その限界への接近が、ついに「僕」のソケットを外させる。

僕は
この手伸ばして
空に進み
風を受けて
生きていこう
どこかでめぐるよ
遠い昔からある場所

AKKOのヴォーカルが声と息とによって生きているように、「僕」は自分と自身とによって生きている。その2つの分離と往来、統合によって生かされている。その「僕」のゆくえに耳を傾ける僕たちも、「君」も、また同じである。

そのあとの間奏のオーボエの音色と質量の広がりに聴き取れる冬と春が、<HELLO AGAIN>にたった今立ち会っている人達それぞれの現実の時、想像上の時を交錯して行き来し、季節の冷たさと温もりを知らせる。昔からある場所 ―― それは僕と君との想い出の場所だけではなく、僕が君には知らせなかった場所、君が僕には伝えなかった場所であり、僕の刻印、君の刻印である。この音の戯曲を通じて歌われてきた昇華すべき自戒は、演奏の終わりに、今とは違う形で訪れる次会の予感を暗示し、「僕」は切り離したソケットを「君」のソケットではなく、最後に見つけた刻印に差し込む。

HELLO, AGAIN
A FEELING HEART
HELLO, AGAIN
MY OLD DEAR PLACE

差し込んだのはソケットだけではない。最後のフレーズを歌うAKKOの多重トラックの息と声が、雨のあとの多重の虹として<HELLO AGAIN>の全長に差し架かる。恋愛専用を担ったソケットは、「昔からある場所」に親しみと心当たりを寄せる人々に広く接続可能な、自分と自身との汎用ソケットへと動き、多重のトラックは、自らが作り出した半円の後ろ側にこだまし、フェイド・アウトしていく。聴く者にとって、その音楽に終わりがあることが信じられないままに。この曲の場合、そのフェイド・アウトは減衰ではなく、結晶である。


<TOMORROW NEVER KNOWS>を作詞作曲して歌った桜井和寿と、<HELLO AGAIN -昔からある場所->を作詞作曲し<TOMORROW NEVER KNOWS><HELLO AGAIN>の両方をアレンジ・プロデュースした小林武史。彼等は日本の21世紀に届いて通じる意味と価値を、不変と残響を、言葉とメロディとコードで、1994年と95年に発明した。人間と呼ばれる宇宙の些細な相対が抱える空漠を、これほどに美しく組織し、失敗を怖れず一歩も引かずに音楽化したJ-POPシングルは、現在でもこの2曲だけである。涙っぽいお手軽な感傷と終始向き合い、正面で受け、組み、苦しみ、安価な涙っぽさの罠に今にも堕ちて行きそうになりながら、その2曲は、結局はそうならない。

わずか2秒違いの、ほぼ同じ長さの演奏時間を持つ2つの曲が最後に聴き手に残すのは、涙っぽさではなく、涙自体である。1994年や95年と同様に、人々は日々を忙しく生き、暇がないと嘆き、暇を持て余し、もて遊び、盛り上げ、必要なものを揃え、不要なものを捨て、忘我を求め、自分を認め、支え、勢いづけ、正当化し、正当を越えて応えてくれるものを、物に、場所に、人に、心に求めて生きている。忘れると忘れないの間で。あの静止の花火から20年以上。けれども、2017年に生きる僕たちは、空漠をただ涙に愚直に変換する愚直な日本語の音楽に、ただ笑みだけに変換する日々の日本語の瞬間に、ある意味で、久しく出会えていないままなのかもしれない。

中野利樹 (TOSH NAKANO)🍀

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