<Ashes to Ashes>で測られるのはマリーゴールドの花びらの大きさではなく、自分の脳波、血圧、居場所である。「灰は灰に / 憂鬱なら御機嫌に」。その文句は欧米の葬儀慣習上ごく一般的な埋葬時の司祭の言葉「灰は灰に、土は土に、塵は塵に」をそっと横切る。埋葬のその言葉自体が旧約聖書『創世記』からの転用でもあり、脳波と血圧はというとゼロ、居場所は土の中である。<Ashes to Ashes>は過去の自身への特異なる葬送曲として形を成し、その形はポップ・ミュージックの領域の内側でほとんど誰も聴いたことがないような、めくるめく美的な多層を垣間見せる。
その童謡の律動と暗喩を歌詞とメロディの両面に盛り込み、曲の終わりに、フェイドしながらボウイのピエロは、キャリアを通じて様々に姿形を変えながらも長く被ってきた創作上のペルソナ (=仮面、外的人格) を自らの手で外す。仮面を被って人格をまとえば何だって出来た、何だって真っ先に実際にやってみせたボウイの70年代への辞世の句、80年代への序文としての<Ashes to Ashes>は、以降のどの地点にも尊大に存在し続ける難攻不落の「現在」への生ける注釈としても読み替え可能な「錬金術の国からの召喚状」として鳴り続ける。時代の被告人と証人、双方への、同等な。
<Even A Fool Learns to Love>(=どんなに馬鹿でも自分の恋愛からは学ぶ) と題されたその英語版のデモ録音は、フランソワのTV音声にボウイの無防備な歌唱を重ねた原始的、素人的なもので、再度書き直して正式録音のための権利を取ろうかと考えていた矢先に、彼はアメリカの人気歌手ポール・アンカに一足先を越されたことを知る。南仏にバカンスで来ていたアンカは、TVでフランソワの<Comme d'Habitude>を聴いて感動し、歌詞の内容を調べた上で、自分の当初の感動の理由に従って、原曲とは全く異なる回顧的抱擁と自己称揚についての英詞を付け、米の流行歌領域の重鎮フランク・シナトラに提供したのだった。1969年、ご存知の大スタンダード曲<My Way>の誕生である。
そうして出来上がるこの全英3位曲<Life on Mars>に着手するおよそ1年前に、ボウイは1963年のベストセラー、ジョン・レチーの男娼小説『シティ・オヴ・ナイト』(邦訳『夜の都会』、1965年、講談社、邦訳刊行当時の帯文句=腰巻は吉行淳之介が寄せていた) を読んで、その孤独でダークな男娼たちの世界の描写に深く惹かれていた。『夜の都会』では、主人公である男娼たちを性的嗜好の例証として描かず、「正常な世界が正常だと標榜する正常な異性愛」が自分たちに強制する精神的・社会的抑圧の犠牲者たちとして活写していた。
<Life on Mars>は<Comme d'Habitude>と<My Way>の主要メロディとコード進行の半分をなぞって、そこから未知の可能性への象徴=火星へと抜け出す。その象徴がわざわざ火星にまで飛ばなくてはならないのは、若い世代にとって、かつて若い世代だった記憶のある世代にとって、この地球における大小の既知がしばしば醜悪で、心の底から本気で付き合うにはあまりに欺瞞と矛盾に満ちているからである。
聴き手はいつの間にか「いつもより真剣に」この曲の内部に誘導される。お決まりの超つまらない集まりのようにお決まりの不平や不満をお決まりに叫んで事足りる、典型的であるがゆえに結局は当人に何かをもたらすということのない自己言及的、自己閉鎖的な糾弾、それが一見<Life on Mars>の全篇に溢れているように見えて、実は実際には1単語も出てこない重要な要素である。
ボウイの音楽は<My Way>の周りを出入りしながら、やがてラフマニノフの組曲2番3曲『ロマンス』を思わせる転調旋律を控えめに散りばめたリック・ウェイクマンのピアノを乗せて欺瞞と矛盾の地上を飛び出し、蓄積していくばかりの不平と不満で望まぬ皮肉屋・無感動屋にならざるを得なかった、あのねずみの髪の少女の投げやりと引きこもりと不本意のすべてを、たったの一言に叩き込んで、力の限り抱きしめる ―― Is There Life on Mars? (火星に生命ってある? 火星に人生ってある?=火星でなら、今度はちゃんと生きていける?)。伝えられた無力は、伝わらなかった懇願よりも、人を空虚から遠ざける。傷は、ひとたび癒えれば、新しい力に変わる。
そしてその最初の<”Heroes”>が、セックス・ピストルズのラストシングル<Holidays in the Sun>(邦題<さらばベルリンの陽>、<”Heroes”>の3週間後に発売された) と並んで、現在でも最高の壁ソングである。なぜならその<”Heroes”>は、曲の表面上の主題であるところの「既存の英雄観やヒーロー志向」を、自分自身で否定しているからである。
先のボウイの意気込みをそのまま反映するように、曲の最深部から終始まっすぐに鳴り続けるロバート・フリップのAコードのギターのサステイン長音=ドローン=オスティナート。それは際限なき前方、彼方を柔らかく、鋭く照らし出す不滅のレーザーの光として聴こえ続ける。フリップのその一音には数十年経っても1ミリも変わることのない不変が、脱出と解放が、自由が、未来永劫が聴こえるのだ。We Can Be Heroes ―― そのヒーローは「このヒーロー」や「あのヒーロー」ではない。私やあなたの周囲に、その身近に、すぐ隣にいる具体的な誰かである。
あるいは自分の中の良き部分、人には見せないままながらも、機会あらばこっそり褒めてやりたい内側の自分の何かである。この曲の題名が引用符の ”” で囲まれている理由はそこにある。ヒーローはヒーローじゃない ―― ボウイ自身が雷撃の如く感化され、この曲に登場させた壁のすぐそばのあの男女のように、ヒーローじゃないものこそヒーローである ―― 3分50秒を過ぎたところで、その雷撃のボウイが叫ぶ ―― 『We Can Be Usssss ! 』(ぼくらは / "ぼくたち" に / なれるはずさ!)。
<Ashes to Ashes>に付けられた元々の、最初の題名は<People Are Turning to Gold>(=人々は黄金に変わる) だった。それは1曲に与えられたタイトルではなく、ダイアモンドのようにクールで硬く、生まれたばかりの黄金のように熱い、デヴィッド・ボウイという審美的錬金術師それ自体を表す墓碑銘だったのではと思う。世にも珍しいそのアルケミストは、今どこにいるのだろう。英語圏では追悼の言葉に「R.I.P.」(REST IN PEACE=安らかに眠れ) が伝統的に使われるが、近年この「R.I.P.」は外界の著しい混迷に対応するべく、自分自身のヴァージョンアップを始めた ―― 新しい「R.I.P.」(REST IN POWER) =力の中に眠れ。これ、どこかの錬金術師にぴったりじゃないか。