1970年の『The Rubaiyat of Dorothy Ashby』はまったく違う。高い演奏力と心地良さは変わらないが、その音楽は聴き手に冷たい。『Afro-Harping』の親切丁寧で社交的な友愛心、「ここをこんな具合に噛み砕いて表現したので、聴く人にも分かってもらえると思う」感が皆無なのだ。
その耽美と孤高との狭間でアシュビーは、自分のヴィジョンに映り込んだ音楽のみを削いで録音しようとし、順次それを実行に移す。試し、貫き、そのヴィジョンを表出、体現していく。『The Rubaiyat of Dorothy Ashby』は演奏時間中のどの瞬間もがフルに燃焼し続け、燃焼が終われば、聴き手がかけるのを止めれば、そこでプレイが終わるのと同時に、目の前からもパッと消えて失せる。全燃焼と全孤高の反動、代償として、その実在感は聴く側の感覚領域上において直ちに昇華、抹消される。このアルバムは聴き手の音楽脳における関連付けのための手がかりをほとんど残さないのだ。
『The Rubaiyat of Dorothy Ashby』で生じる音楽は、自らがかけられ、再生されているいかなる環境との間にも特定的、情緒的、分析的接点を持たない。それがこの、ジャズであってジャズでない、それと同時にロックでもファンクでも、ソウルでもトーキングでもある希少な原始音楽が、ただひたすら聴き手に冷たい理由である。
その異界からの催眠ハープを不敵に爪弾くアシュビーは『The Rubaiyat of Dorothy Ashby』で歌いもする。その声はまるで、製作されながら陽の目を見ずにいるままの007=ジェームズ・ボンドの未公開作サウンドトラックか、エリック・アンブラーを彷彿とさせる50-60年代のヨーロッパ・スパイ映画音楽、スター・トレック的でありながらスター・トレックではないアメリカSF・TVシリーズ音楽のようなものを想起させるが、その映画も音楽も実在しないだけでなく、当の連想自体がおそらく30秒と持たない。