REVIEWS

dorothy ashby
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日頃聴いているお気に入りのポップやロックが、時々イヤになることがないだろうか。いわゆるマンネリというやつだけれども、音楽に限ったケースでいうと、単にマンネリが原因なだけでない場合があるように思える。これはまったくの推論だけれども、おそらく音楽に対して貪欲で物知りで真摯で、日頃音楽から多くのものを受け取り、多くのものを求めるリスナーほどその傾向が強いようにも感じる。より正確に言うと、そういった人たちは普段聴いている音楽そのものがいやになるのではなく、それらの音楽をチョイスしている自分の音楽的傾向や嗜好性、容量、趣味、とらえ方、聴き方のほうを、実際はいやになっているのではないか。一定の偏りに陥っている己の音楽脳の狭さ、クセ、そこから容易に脱却できないとわかってしまう自己対話の結果、その結果と音楽脳をもっと充実させたい願望との間のしかるべき矛盾と格闘。それらが聴き手としての自分を、パターン・スパイラルから自力で抜け出させることを阻む。

かくして先週の iPod のプレイリストは今週も更新されず、されたとしても単に先週と違うだけで4週前のものと大して変わらない、という困った事態を招くことになる。自分の嗜好性、音楽脳はどうしようもないのだ。そう確信させられた各人は、それぞれ自分にとっての "帰るべき場所" に戻る。ビートルズ、ストーンズ、ディラン、ニール・ヤング、ヴェルヴェッツ、ツェッペリン、スプリングスティーン、マイケル、プリンス、ボウイ、ニルヴァーナ、オアシス、レディオヘッドへと舞い戻っていき、疲弊した自分の音楽脳をそこでリセット、リカバリー、リスタートさせていく。帰る場所を特に確保していないリスナーの場合は、よりマイナーなアーティスト、例えばドロシー・アシュビー(DOROTHY ASHBY) に行く。ビートルズやストーンズらのように歴史に広大な専用スペースを持ち、ポップ・ロック史が続く限り同じくその占有地も決して消えないという巨大アーティストとは異なり、比較的小規模のファンをがっちり掴んでいるアシュビーのような場合は帰るというよりも行く、あるいは赴くという感覚のほうが近い。ジャンルの分類上はジャズ・ハープ・アーティスト (ハーモニカではなく、クラシカルなほうのハープ) に位置づけられるアシュビーの音楽が、ジャズのテリトリーからポップの領域へとクロスオーバーしたのは1968年の『AFRO-HARPING』あたりからで、そこで展開されている音楽は、良くも悪くも口当たりと聴き心地の良い、高度な演奏能力を伴った現在でいうところのラウンジ・ミュージックの先駆けのようなサウンドだった。

1970年の『THE RUBAIYAT OF DOROTHY ASHBY』はまったく違う。高い演奏力と心地良さは変わらないが、その音楽は聴き手に冷たい。『AFRO-HARPING』の親切丁寧で社交的な友愛心、「ここをこんな具合に噛み砕いて表現したので、聴く人にも分かってもらえると思う」感が皆無なのである。その音楽は何人の聴き手、ファンを獲得しようが、そんなこと知ったことではないという感じだ。どんな時代とも呼応せずに離れていくかのような奇妙で遠く、耽美と異彩とを放つその夢想のサウンドは、どれだけ進もうとも、受け手ということに関しては常に我関せずであり、四六時中絶えず孤高を守り続ける超越と厳正の音として、姿を現わしてくる。

その耽美と孤高との狭間でアシュビーは、自分のヴィジョンに映り込んだ音楽のみを削いで録音しようとし、順次それを実行に移す。試し、貫き、そのヴィジョンを表出、体現していく。『THE RUBAIYAT OF DOROTHY ASHBY』は演奏時間中のどの瞬間もがフルに燃焼し続け、燃焼が終われば、聴き手がかけるのを止めれば、そこでプレイが終わるのと同時に、目の前からもパッと消えて失せる。全燃焼と全孤高の反動、代償として、その実在感は聴く側の感覚領域上において直ちに昇華、抹消される。このアルバムは、聴き手の音楽脳における関連付けのための手がかりを、ほとんど残さないのだ。

『THE RUBAIYAT OF DOROTHY ASHBY』で生じる音楽は、自らがかけられ、再生されているいかなる環境との間にも特定的、情緒的、分析的接点を持たない。それがこの、ジャズであってジャズでない、それと同時にロックでもファンクでも、ソウルでもトーキングでもある希少な原始音楽が、ただひたすら聴き手に冷たい理由である。厄介なのは、その音楽が定義づけているそうした接点の非現実的なまでの拒否と不在、欠落が、聴き手であるこちらにとっては折に触れて必要とする類の現実的様相を持ったものでもあるという点にある。一度このアルバムの異彩に触れた者は、そこから恒久的に離れ続けるという事が難しいのだ。オリジナルな芸術体験、オリジナルな音楽体験の記憶は、誰にとっても消し難いからである。

その異界からの催眠ハープを不敵に爪弾くアシュビーは『THE RUBAIYAT OF DOROTHY ASHBY』で歌いもする。その声はまるで、製作されながら陽の目を見ずにいるままの007=ジェームズ・ボンドの未公開作サウンドトラックか、エリック・アンブラーを彷彿とさせる50-60年代のヨーロッパ・スパイ映画音楽、スター・トレック的でありながらスター・トレックではないアメリカSF・TVシリーズ音楽のようなものを想起させるが、その映画も音楽も実在しないだけでなく、当の連想自体が、おそらく30秒と持たない。この音楽はそういった聴き手の自由連想さえも拒んでしまう。何を考えようがすべて適切ではない、正しくはないと右往左往するこちらの音楽脳に叩き込み、周知徹底し、信じ込ませるのである。<DRINK>でのアシュビーの声は、007のシャーリー・バッシー(SHIRLEY BASSEY)<GOLDFINGER>の代表的で重厚な歌唱を、足元に寄せ付けさえもしてくれない。

『THE RUBAIYAT OF DOROTHY ASHBY』の断絶と耽美、孤高は、簡単には他の音楽と比較・対照できない。したがってその音楽がかつて何であったのか、いま一体何であるのかの結論は、まだ下されないままで放置されている。発売から40年経ってもである。そこにある未解決と冷たさを探しに、ある日聴き手はこのアルバムを iPod に入れる。世の中と接点を持たないその美しい隔絶音楽と、何とかして自分だけはつながりを持っていたいと望むからである。そしてそうしながら知らされる : この選択自体もまた、自分自身の音楽脳の所産なのであり、その脳の抜け目なき仕業の一環 ―― 自分から自分への、いつか消え去る、巧みな謎かけのいたずらなのだということを。

中野利樹 (TOSH NAKANO)♠

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