Motherless Child=母なき子。正式な曲名は<Sometimes I Feel Like a Motherless Child>。実に1890年の大昔に書かれた黒人の奴隷哀歌である。「時々自分が / 母親のいない子供のような気がする / 故郷から遥か遠くに離れて」。アフリカから連れてこられた奴隷たちは「自分が生きている間、もう二度と故郷の大地を踏んで母親に再会することはないのだ」と悟った。ゴスペル=霊歌は神の恩寵やご加護を誇らかに、最高揚して歌う。奴隷歌=隷歌は神への諦めを最底辺で、物悲しげに歌った。
<悲しい酒>が2コーラスの中盤にさしかかった時、僕はCDを止めようとした。しかしアレサは制した。『この歌手、すごくうまいわね。フレーズの消え際の感情の襞の数がものすごく多い。これが一般的な日本の音楽なのかしら』。『これは「演歌=ENKA」と呼ばれていて、彼女=ひばり=SKYLARKは、その分野で日本最高の歌心を遺した至上の歌い手だと多くの国民に見なされています。アメリカにおけるあなたのように』。そう言ってすぐに「しまった。しくじった」と思った。この文脈だとアレサがもう死んだようにも聞こえるからだ。次の瞬間見えたのはアレサの怒りではなく涙だった。『ありがとう』。何がありがとうだったのだろう。こちらも貰い泣きして分からない。それから美空ひばりが<悲しい酒>を歌った歳がアレサが傑作の1つ『Young, Gifted and Black』を録音した時と同じ28歳だったこと、身長が147センチだったこと、52歳で亡くなったことを話した。52歳。彼女の突然の涙のたった2ヵ月前に、アレサ自身がその52歳になっていたのだった。
双方が望まぬ別離で終わった誠の恋を短く綴った<Sweet Bitter Love>の2回目のスタジオ版は、80年代主流ポップ特有の過剰バブリーで機械的なアレンジのために、アレサのヴォーカルもそのバブリーな無機質と競うように感情過多でオーバーな仕上がりだが、そのあとにシカゴで行われた米PBSのTVライヴ『サウンド・ステージ』では、この曲はより抑制的、内省的に、自然体のままで、心に灯りをともす持続的な感動として歌われていた (『The Queen of Soul: Live from Chicago』として現在もCDとDVDで入手可能)。まるで20年前の誠の想いが、歌い手の中で20年間、同じ深き場所でずっと人知れず生き続けていたかのような歌唱だったのだ。そのことを伝えると『すてきな批評と賛辞をありがとう。私はあの曲に20年後の生命を与えたかったの。この日本の歌も、1度は失われたトゥルー・ラヴの歌なの?』。『愛し合ったまま、歌手になる夢のために彼と離れて上京した女性の3年後の公演先に、彼が亡くなった知らせが届くという歌です』。
アレサ自身が生涯にわたって無数に受け取った「喝采」―― その喝采がレコード上で最初に記録されたのは1968年発表の初のライヴ・アルバム『Aretha in Paris』だ。1968年。今からぴったり50年前、一歌手の公演は、どんなスーパースターであっても舞台の背景に現在のような巨大な仕掛けやスクリーンなどなく、『Aretha in Paris』もバックバンド上部に数個のライト、センターにスポットライト1つの簡素な登場だった。コンサートというよりもリサイタル。しかし簡素であるからこそ、歌手の当日の歌唱や振る舞いの出来不出来、その場の空気のゆくえや芸術的重力の浮沈がものを言い、その美の浮沈は集まった聴衆の喝采にそのまま直結していた。サンフランシスコであろうとニューヨークであろうとパリであろうと、「お約束の拍手」は50年後の今よりずっと少なかったのだ。
この『Aretha in Paris』については、世界のアレサファンの間で今も評価や意見が分かれている。アレサの歌唱自体をじっくり聴きたいファンは寄せ集めの急造バックバンドによる『Aretha in Paris』を支持し、舞台全体のエネルギーや熱気の渦を求めるファンは71年のオールスターバンドの『Live at Fillmore West』を好む。
黒人の社会進出と地位向上を核とした公民権運動の音とリズムと声の一大シンボルになり、自分を探し当てられずにいた白人たちの耳にも深く刻まれた全米1位の100万枚ヒット<Respect>にしろ、恋した男性に結局は従うしかない窮屈でステロタイプな男女関係への決別と解放を断固たる態度で歌った全米2位の100万枚ヒット<Chain of Fools>にしろ、アレサの最上の音楽は「心の自宅」を自らが強く求め、従って聴く人に強く求めさせ、求めた人々に差異なく提供した。彼女は自身の歌声のみによって人々の一室を改装補修し、引っ越させ、世界の心の無数の住まいに1つしかない手を差し出し続けた。
『<Ain't No Way>は「音楽」に思えないんです。最初に聴いた日から今までずっと』。個人的愛聴のアレサ曲について彼女に投げた。『続けて。くわしく』。1968年の傑作アルバム『Lady Soul』の最後に収められた<Ain't No Way>は「手を伸ばして直接触りたい物体」だった。そのひときわ素晴らしいゴスペル=ソウル=ポップの永遠の古典曲は、実際に触れて抱きしめることの出来る姿形ある実存物、再生されている間、再生されるたび、毎回自力で呼吸する有機体のように思えていたからだ。人間の産物ではなく、より上位の存在や超自然が地上に授けた普遍への手がかり、聖を生に、静を清に、製を精に変えてくれる、けれどもレコード店で普通にお金を払って買える商品。その矛盾の深き謎は、幼い自分には解けなかった。大人になってからも解こうとしなかった。
アレサの前進の背後に、その声に劣らぬオペラ・スキャットが聴こえてくる。アレサが「名づけ親」であったホイットニー・ヒューストン、その母シシー・ヒューストンの光の束だ。おそらく自分はずっと<Ain't No Way>に「巡礼」しようとしていたのだ。その曲に聴こえる1つの完璧と絶対を仰ぎ、自分に聴き取れる限りのことを聴き取り、演奏の終わりに、受け取った量のせいぜい何十分の一にしかならない量の畏敬の念を返す。そして自分がその楽曲と歌唱にふさわしいリスナーであれたらとその曲に望む。『そういったことをあなたの<Ain't No Way>は教えてくれたんです』。『ありがとう・・・』。アレサがまた泣いた。『この曲を愛してくれる人は多いけれど、こんな表現をくれた人はいなかった。あの曲は妹のキャロリンが私のために書いてくれた大切な宝物。書いてくれた深夜に「リー (=家族や親しい人たちの間でのアレサの呼び名) の精霊が私に急に乗り移ったんだ」って言ってたわ』。アレサが笑った。
<Ain't No Way>にはもう1つ、知られざる勲章がある。1954年のポップ・ミュージック誕生から間もなく65年。人一人が生まれてから定年退職するほどの長きポップの歴史の中で、この曲は「女性アーティストで全米トップ20に入った最初のB面曲」である (最高位16位)。「唯一の」ではない。その4ヵ月後にアレサ自身が<I Say a Little Prayer>(B面で最高位10位) で自分の記録をすぐに更新したからだ。泣いて笑って、望外の話を続けながら、<Ain't No Way>の真ん中のブリッジ・パートのアレサの熱唱を僕は思い浮かべていた。「私が必要とされてるのなら / ちゃんとそう言って欲しい / Babe / Babe / Babe / 私にはあなたが必要だって事 / どうしたら本当に伝わるの? / あぁ…」。
アレサは「Babe / Babe / Babe」を実際には「Babe!/ Babe!/ Babe!」と歌い、「I / Need / You」を「I! / Need ! / You! / Ahh...」と歌った。最初の6語とも同じであるはずの音階は、なぜか一語を越えるごとに天高くなっていき、7語目の「Ahh...」はその天に厳かに澄んで消える。ひとりの主人公が自分には届けられない思いを必死で届けようと現実の限界を突き破る瞬間、1人のアーティストが自分には出せない高音を身を賭して絞り出そうとする瞬間、2つの劇的な越境が同時にこちらに聴こえる。一体どうしたらいい。「いい曲だなあ」って自分に話せばいい? 「いい曲だから」って誰かに話せばいい?