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aretha

【この批評は雑誌 『レコード・コレクターズ』 2018年11月号掲載原稿に加筆した増補版です】

8月16日の深夜11時。アレサ・フランクリンが亡くなったという世界的なニュースを知って、頭の中で複数の曲がかかり始めた。最初はスティーリー・ダンが1980年に出した全米トップ10シングル<HEY NINETEEN>の忘れ難い一節だ。「ヘイ19歳 / アレサ・フランクリンがかかってる / 19歳だから知らないよね / ”クイーン・オヴ・ソウル” のことなんて」。その曲がビルボード誌のHOT100チャートを快調に駆け上がっていく間、ずっと「自分はヘイ16歳、でも ”クイーン・オヴ・ソウル” をちょっとは知ってる」と誇りに感じたものだ。今でも誇りに感じている。スティーリー・ダンのドナルド・フェイゲンが皮肉っぽく、クールに、親心の微笑を込めて歌った「ソウルの女王」に、その誇らしげな16歳の小僧が14年後にインタヴューしたからだ。

1994年の初夏。当初はミシガン州デトロイトに複数あるアレサの邸宅の1つで行われるはずだったインタヴューは、当日になって急遽同じデトロイト市内のユナイテッド・サウンド・スタジオに変更された。アメリカの同業の友人から「アレサは公私共に女王さま。よく当日になって気が変わるから」とのアドバイスを事前にもらえていたのは心の準備の上で幸運だった。スティーリー・ダンの<HEY NINETEEN>の次に頭中で再生されたのは、そのインタヴューで彼女と一緒に聴いた美空ひばりの1966年のミリオンセラー<悲しい酒>だ。

なんでこんなもの聴かなきゃならないの? とでも言いたげなアレサの言外の女王ぶりを正面で感じながら、1コーラス終了後の美空ひばりのセリフのところで僕は本題をぶつけた。『この日本の大ヒットは<MOTHERLESS CHILD>に影響を受けていると思います。こだまが聴こえませんか?』。彼女の態度が「そっけない女王」から一瞬にして「当代随一の歌手」のモードに切り替わった。<MOTHERLESS CHILD>は彼女の幼少期からの愛唱歌でもあったからだ。当代随一の歌手の口が開いた。『この日本の歌は何を歌っているの?』。

MOTHERLESS CHILD=母なき子。正式な曲名は<SOMETIMES I FEEL LIKE A MOTHERLESS CHILD>。実に1890年の大昔に書かれた黒人の奴隷哀歌である。「時々自分が / 母親のいない子供のような気がする / 故郷から遥か遠くに離れて」。アフリカから連れてこられた奴隷たちは「自分が生きている間、もう二度と故郷の大地を踏んで母親に再会することはないのだ」と悟った。ゴスペル=霊歌は神の恩寵やご加護を誇らかに、最高揚して歌う。奴隷歌=隷歌は神への諦めを最底辺で、物悲しげに歌った。

当時の黒人社会でつとに高名で影響力ある説教師の父の元に生まれ育ったアレサは、11才でゴスペルソングの数々をピアノで弾き語りして詠唱し、父が率いるハイ・クオリティーなゴスペル隊の最年少花形歌手として、教会をサーキットしながら鋼の実力を身に付けていった。しかし、一度も自身の録音には残さなかったけれど、「ゴスペルのアリサ」は決して陽の当たらない黒人の奴隷ブルーズの方にも通じていたのだ。

『愛した男と別れて、酒場で独り酒を飲む女の歌です』と僕はアレサに返した。『それがこんな曲調の歌なのね』。『こんな曲調とは?』『<MOTHERLESS CHILD>のこだまを感じるから』。

<MOTHERLESS CHILD>が表立ってアメリカや世界の世の中に認知・浸透していった1つのきっかけは、戦後の1947年にサラ・ヴォーン、1958年にルイ・アームストロングの当時の男女2大歌手がこの曲を発売したことである。エルヴィス・プレスリー=ポップ・ミュージック登場以前の1910年代から1930年代のアメリカの国民的作曲家ジョージ・ガーシュウィンが1935年に書いた舞台劇『ポーギーとベス』の有名な劇中曲<SUMMERTIME>は、曲の途中までをこの<MOTHERLESS CHILD>から借りており、1956年に当時の「ゴスペルの女王」マヘリア・ジャクソンがその<SUMMERTIME>と<MOTHERLESS CHILD>をメドレーの形で初めて録音して2曲の繋がりを明かし、ガーシュウィンと奴隷たちの両方に再敬礼した。サラとルイとマヘリア。彼らの努力と慧眼で、日陰の<MOTHERLESS CHILD>に陽が当たり始めたのだ。

<悲しい酒>が2コーラスの中盤にさしかかった時、僕はCDを止めようとした。しかしアレサは制した。『この歌手、すごくうまいわね。フレーズの消え際の感情の襞の数がものすごく多い。これが一般的な日本の音楽なのかしら』。『これは「演歌=ENKA」と呼ばれていて、彼女=ひばり=SKYLARKは、その分野で日本最高の歌心を遺した至上の歌い手だと多くの国民に見なされています。アメリカにおけるあなたのように』。そう言ってすぐに「しまった。しくじった」と思った。この文脈だとアレサがもう死んだようにも聞こえるからだ。次の瞬間見えたのはアレサの怒りではなく涙だった。『ありがとう』。何がありがとうだったのだろう。こちらも貰い泣きして分からない。それから美空ひばりが<悲しい酒>を歌った歳がアレサが傑作の1つ『YOUNG, GIFTED AND BLACK』を録音した時と同じ28歳だったこと、身長が147センチだったこと、52歳で亡くなったことを話した。52歳。彼女の突然の涙のたった2ヵ月前に、アレサ自身がその52歳になっていたのだった。

続けてちあきなおみの1972年レコード大賞受賞曲<喝采>をかけた。『この曲はあなたの<SWEET BITTER LOVE>を思わせるんです』。<SWEET BITTER LOVE>はアレサが20年を跨いで2回録音している特異な曲だ。1度目はジャズソングを歌っていたコロンビア・レーベル時代の1965年、2度目はワールドワイドな商業的カムバックを果たした1985年。

双方が望まぬ別離で終わった誠の恋を短く綴った<SWEET BITTER LOVE>の2回目のスタジオ版は、80年代主流ポップ特有の過剰バブリーで機械的なアレンジのために、アレサのヴォーカルもそのバブリーな無機質と競うように感情過多でオーバーな仕上がりだが、そのあとにシカゴで行われた米PBSのTVライヴ『サウンド・ステージ』では、この曲はより抑制的、内省的に、自然体のままで、心に灯りをともす持続的な感動として歌われていた (『THE QUEEN OF SOUL: LIVE FROM CHICAGO』として現在もCDとDVDで入手可能)。まるで20年前の誠の想いが、歌い手の中で20年間、同じ深き場所でずっと人知れず生き続けていたかのような歌唱だったのだ。そのことを伝えると『すてきな批評と賛辞をありがとう。私はあの曲に20年後の生命を与えたかったの。この日本の歌も、1度は失われたトゥルー・ラヴの歌なの?』。『愛し合ったまま、歌手になる夢のために彼と離れて上京した女性の3年後の公演先に、彼が亡くなった知らせが届くという歌です』。

それから<喝采>の単語の意味を話すと『That's Beautiful...』。アレサはその後、故意に行間を置いた。続けるはずの言葉に意図を持ってポーズを挟んだのがこちらに伝わった。素晴らしい沈黙だった ―― 『・・・詞にも曲にも<SWEET BITTER LOVE>のエッセンスが確かにある。このシンガーは、最大の哀しみを最大の自制として伝えているのよ。自分を気丈に保つため、明日を気丈に生きるために』。

アレサ自身が生涯にわたって無数に受け取った「喝采」―― その喝采がレコード上で最初に記録されたのは1968年発表の初のライヴ・アルバム『ARETHA IN PARIS』だ。1968年。今からぴったり50年前、一歌手の公演は、どんなスーパースターであっても舞台の背景に現在のような巨大な仕掛けやスクリーンなどなく、『ARETHA IN PARIS』もバックバンド上部に数個のライト、センターにスポットライト1つの簡素な登場だった。コンサートというよりもリサイタル。しかし簡素であるからこそ、歌手の当日の歌唱や振る舞いの出来不出来、その場の空気のゆくえや芸術的重力の浮沈がものを言い、その美の浮沈は集まった聴衆の喝采にそのまま直結していた。サンフランシスコであろうとニューヨークであろうとパリであろうと、「お約束の拍手」は50年後の今よりずっと少なかったのだ。

この『ARETHA IN PARIS』については、世界のアレサファンの間で今も評価や意見が分かれている。アレサの歌唱自体をじっくり聴きたいファンは寄せ集めの急造バックバンドによる『ARETHA IN PARIS』を支持し、舞台全体のエネルギーや熱気の渦を求めるファンは71年のオールスターバンドの『LIVE AT FILLMORE WEST』を好む。

『どちらが気に入っている?』とアレサに尋ねた。『自分のパフォーマンスについてはパリのライヴ。初めてのライヴ収録だったし、場所がパリだったし (パリはアレサの終生の憧れの街で、彼女は40歳代中頃までに何度かフランス語を実際に勉強している) 充実感で一杯だった。フィルモアは会場の雰囲気がものすごくて、私1人には制御出来ない異常な磁力と磁場があったの。最初から最後まで1つの長~い1曲を延々とプレイしているような、ショーの間ずっと上等な音圧のワインで酔ってるような、そんな感覚だった』。

フィルモアは同じサンフランシスコ市内のヘイト・アシュベリー地区と並んで、あのヒッピー文化の発祥の地の1つだ。ラヴ&ピース ―― その共存・共生的概念は「ドラッグ&サイケデリア」を自らの運動の副産物として生み出し、モンスター化させ、やがてそのモンスター自身に喰われて腐食していく。「共存と共生」は「依存と強制」になり、「ジョン・アンド・ヨーコ」が概念の初期化を再度求め、個人主義的シンガー・ソングライターたちが大挙して登場し、ヴェトナム戦争がアメリカ初の敗北で終わり、アメリカは国民を1つにまとめる記号とお題目と誇りを失った。人々は口を閉じたまま、黙ってそれぞれの家に戻った。それぞれの心の自宅に。

アレサ・フランクリンの音楽は正を生に変え、性を生に変え、聖を生に変えた。アレサの歌は書かれた通りの音譜とコードと言葉から常にはみ出そうとする原始の衝動を伴っていた。意志と本来への衝動、熟考と具体への衝動、自認と確固への衝動だ。現在の「#ME TOO」運動の広義の先駆けを、半世紀も前に彼女の置き土産は物語り、予告し、体現してもいたのだ。

【正を生に】
<RESPECT>(=敬意)

R-E-S-P-E-C-T
ちゃんと考えてみてよ
なんで私がこんな事わざわざ頼んでるのか
R-E-S-P-E-C-T
自分のことは自分でやって (ちゃんと態度で示してよ)
せめてこれくらい聞いてくれたっていいんじゃない?

【性を生に】
<CHAIN OF FOOLS>(=愚かの数珠つなぎ)

私はあなたのアクセサリー
結局好きなときに私を身に着けてるだけ
どんなチェーンにも傷んで弱い所がある
私がそうかもね
だから補強してお返しするわ
ほら

黒人の社会進出と地位向上を核とした公民権運動の音とリズムと声の一大シンボルになり、自分を探し当てられずにいた白人たちの耳にも深く刻まれた全米1位の100万枚ヒット<RESPECT>にしろ、恋した男性に結局は従うしかない窮屈でステロタイプな男女関係への決別と解放を断固たる態度で歌った全米2位の100万枚ヒット<CHAIN OF FOOLS>にしろ、アレサの最上の音楽は「心の自宅」を自らが強く求め、従って聴く人に強く求めさせ、求めた人々に差異なく提供した。彼女は自身の歌声のみによって人々の一室を改装補修し、引っ越させ、世界の心の無数の住まいに1つしかない手を差し出し続けた。

【聖を生に】
<AIN'T NO WAY>(=手立てを失くして)

あなたのこと愛したくても
手立てがないの
そうさせてはもらえないから
どうすれば、どうしたら、どうやれば
私の全部を伝えることが出来る?
この両手は縛られてしまってるのに

『<AIN'T NO WAY>は「音楽」に思えないんです。最初に聴いた日から今までずっと』。個人的愛聴のアレサ曲について彼女に投げた。『続けて。くわしく』。1968年の傑作アルバム『LADY SOUL』の最後に収められた<AIN'T NO WAY>は「手を伸ばして直接触りたい物体」だった。そのひときわ素晴らしいゴスペル=ソウル=ポップの永遠の古典曲は、実際に触れて抱きしめることの出来る姿形ある実存物、再生されている間、再生されるたび、毎回自力で呼吸する有機体のように思えていたからだ。人間の産物ではなく、より上位の存在や超自然が地上に授けた普遍への手がかり、聖を生に、静を清に、製を精に変えてくれる、けれどもレコード店で普通にお金を払って買える商品。その矛盾の深き謎は、幼い自分には解けなかった。大人になってからも解こうとしなかった。

アレサの前進の背後に、その声に劣らぬオペラ・スキャットが聴こえてくる。アレサが「名づけ親」であったホイットニー・ヒューストン、その母シシー・ヒューストンの光の束だ。おそらく自分はずっと<AIN'T NO WAY>に「巡礼」しようとしていたのだ。その曲に聴こえる1つの完璧と絶対を仰ぎ、自分に聴き取れる限りのことを聴き取り、演奏の終わりに、受け取った量のせいぜい何十分の一にしかならない量の畏敬の念を返す。そして自分がその楽曲と歌唱にふさわしいリスナーであれたらとその曲に望む。『そういったことをあなたの<AIN'T NO WAY>は教えてくれたんです』。『ありがとう・・・』。アレサがまた泣いた。『この曲を愛してくれる人は多いけれど、こんな表現をくれた人はいなかった。あの曲は妹のキャロリンが私のために書いてくれた大切な宝物。書いてくれた深夜に「リー (=家族や親しい人たちの間でのアレサの呼び名) の精霊が私に急に乗り移ったんだ」って言ってたわ』。アレサが笑った。

<AIN'T NO WAY>にはもう1つ、知られざる勲章がある。1954年のポップ・ミュージック誕生から間もなく65年。人一人が生まれてから定年退職するほどの長きポップの歴史の中で、<AIN'T NO WAY>は「女性アーティストで全米トップ20に入った最初のB面曲」である (最高位16位)。「唯一の」ではない。その4ヵ月後にアレサ自身が<I SAY A LITTLE PRAYER>(B面で最高位10位) で自分の記録をすぐに更新したからだ。泣いて笑って、望外の話を続けながら、<AIN'T NO WAY>の真ん中のブリッジ・パートのアレサの熱唱を僕は思い浮かべていた。「私が必要とされてるのなら / ちゃんとそう言って欲しい / Babe / Babe / Babe / 私にはあなたが必要だって事 / どうしたら本当に伝わるの? / あぁ…」。

アレサは「Babe / Babe / Babe」を実際には「Babe!/ Babe!/ Babe!」と歌い、「I / Need / You」を「I! / Need ! / You! / Ahh...」と歌った。最初の6語とも同じであるはずの音階は、なぜか一語を越えるごとに天高くなっていき、7語目の「Ahh...」はその天に厳かに澄んで消える。ひとりの主人公が自分には届けられない思いを必死で届けようと現実の限界を突き破る瞬間、1人のアーティストが自分には出せない高音を身を賭して絞り出そうとする瞬間、2つの劇的な越境が同時にこちらに聴こえる。一体どうしたらいい。「いい曲だなあ」って自分に話せばいい? 「いい曲だから」って誰かに話せばいい?

インタヴューが終わる頃、アレサは一度消えた。外に停めてあった車からCDを持ってきてくれたのだ。『今日のお礼に思い出したの』。僕たちは一緒にその1曲を聴いた。中身はJIMMY SCOTT版の<MOTHERLESS CHILD>。1960年の録音だ。『彼のヴァージョンが一番好き。デビューする前によく聴いてたの』。ジミー・スコットといえば、ホルモン疾患に起因する「男か女か分からない声」の持ち主として唯一無二の存在感を放った伝説の歌い手だ。そして何より、アレサ自身が「ママとおんなじ名前になりたい」とねだった大好きな母親を10歳直前で亡くしたマザーレス・チャイルドだった。僕はジミーの<MOTHERLESS CHILD>はそれまで聴いたことがなく、他の版にはないモダンな錯誤の感触と彼の独特の声質から来る両性性に聴き入っていた。それから<悲しい酒>と<喝采>のCDを彼女に渡し、握手と頬キスをして別れた。立ち去ろうとする背中にアレサの声が聞こえた。『GOD BLESS YOU!』 (神のご加護を)。今になってその最後の言葉は、僕が彼女に伝えるべき3語だったのだとあらためて感じている。いつまでも、どうぞ安らかに。喝采のリスペクト、消えないそのこだまとともに。


P.S.
2003年の夏にジミー・スコットが東京赤坂のB-FLATで公演し、<MOTHERLESS CHILD>を9分に渡って歌った (2004年発売の『LIVE IN TOKYO』で珠玉の9分が聴ける)。公演後の楽屋でジミーに会い、『あなたの<MOTHERLESS CHILD>はアレサ・フランクリンの一番のお気に入りなんですよ』。『アレサ・フランクリン…?』。78歳のジミーはこちらをきょとんと見つめ、4秒後にこう言った。『それってアレサ・フランクリンのことかね?』。


中野利樹 (TOSH NAKANO)🍀


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