7月24日。起床して身支度する間にBGMをかける。1曲目はエイミー・ワインハウス (AMY WINEHOUSE) の<LOVE IS A LOSING GAME>。BGMのつもりが、しばし聴き入ってしまう。彼女の曲の時は大体そうだ。慣れている。その日もそこで聴ける彼女は前回聴いた時とどこも変わりがなかった。聴こえてくるもの全てが素晴らしく、素晴らしいその何もかもが奇妙に壊れている。壊れるところが聴こえてくる。彼女が出発し、その存在を記憶した2003年以来ずっと、それは何もかもを与えようとしながら同時に終始失うこともし続ける音楽のように聴こえていた。そしてどういうわけだか、それは「分け合う」ということが出来ない音楽だった。そのひときわ素晴らしい音楽の数々は、ある点において不器用極まりなかった。分けるという単語や概念を、その音楽は人並みに知っていなかった。あるいは許していなかった。ただ自分から取り出し、吐き出し、そこで搾り取ったものを聴き手に一方的に与え続けた。こちらの都合など頭に入れず、ただ一方的に。聴き手がその音楽と何かを共有したいと望んでいることなど考えもせずに。少なくとも自分にとっての長い間、それが彼女の音楽だった。そしてその朝のBGMの数時間後、極端なその美的一方通行、創造と崩壊との間の巨大な矛盾が、彼女の人生の全体に取って代わった。文字通りに太く短い27年間の。
彼女がこの世に遺した2枚のアルバム、2003年の『FRANK』(率直、あけすけ) と2006年暮れの『BACK TO BLACK』(闇に戻って) は、現在まで聴く者に清濁両方の無類の生命を与え続けた歳月の何倍もの長期に渡って、今後も人々の心を強くとらえ続けるだろう。しかし、そうであることをその音楽は当初からずっと自認も実感もしていない。彼女が死んでしまい、世界のファンが嘆き悲しみ、それ見たことかと彼女の連日の奇行とゴシップに辟易していた部外者がほくそ笑んだ今もなおそうである。そのサウンドと声の総体は、なぜかいつもどこかでためらっては人に気づかれぬよう尻込みし、必要のない人見知りをそっと繰り返した。彼女の声に聴こえる結なき起承転の彷徨と、サラーム・レミの魔法のアレンジによる文字通りヴィンテージな音像と音圧の塊がこちらを遠くから値踏みし、目を合わせるとその値踏みはびっくりしてたじろぎ、そのあと見たこともないような柔らかい微笑みに変わった。そんな音楽だった。
そういった音楽の本質を知るには、聴き手は自分もまた、その汚れた手を自分の体内に突っ込まなければならなかった。2つの作品に直に、リアルに触れるには、そうする以外に方法がなかったのだ。無傷で済まない音楽、自分の手の汚れに気づかされる音楽に近づきたいと少しでも望む場合には。「歴史は / ただ自分を繰り返すだけ / だって / 自分で死に損ねたんだから」。それはただのソウル・チューン、耳当たりの良いポップ・ソングのはずではなかったのか。売り出されるべき20歳の新人歌手が自分でせっせと書き、売るべきデビュー作の中でリスクをとってわざわざ歌う必要はどこにもない。しかし<WHAT IS IT ABOUT MEN>はそのわざわざを実行した。ありきたりどころではない、その重く沈み込むダークで率直な声の独白は、死に損ねたその歴史の上に生きる世界の人々に届いた。どんなわれわれよりも鋭く深く。それにもうひとつ、汚く。その音楽を好きでいる必要はなかった。それは聴く者の五感に憑り付いて掻き乱し、その日常に勝手に居着いてしまうような異質な美を携えていたからだ。
しかし世界の人々は、その我々はどうしたことか、そのわざわざを好きになった。ダークでフランクなその声の重力に自ら好んで捕えられたいと願うほどに惚れ込んでしまった。そこに聴こえ、垣間見える異質で特殊な美がその音楽の、その女性のどこから生じるのか。聴けば聴くほど突き止めずにいられなくなってしまったのだ。「驚異の天才新人女性あらわる」――。決まり文句はあっという間に本国イギリスを飛び出し、世界に広がった。3年後の『BACK TO BLACK』を日々、陰に陽に催促するかのように。その催促の彼方に待ち構える黒いものへと無自覚に、無秩序に突き進むかのようにだ。「私は百回もう死んでる / ねえあんた / いいかげんあの女のとこへ戻ったら? / あたしも戻るわ / またあの真っ黒いところに」。その3年後の『BACK TO BLACK』の決定的な表題曲で、彼女は捨てられそうな自分の男に虚勢を張っているのではなかった。それは暗闇の中の自分への独り言、どうにもならない自分自身に対して、真っ黒い墨で塗りつぶした絶縁状だったのだ。
一晩でグラミーの5つの賞を次々に受け取り、主要4部門のうち3つをさらった23歳。類似アーティストの追随を完膚なきまでに許さぬほどに圧倒する突然の、降って沸いた評価と売上とスターダム。エイミー・ワインハウスと名乗る女性に、それはどんな意味があったのか。それは一体、どんな気分がしたのか。「リハビリに行けってみんなが言う / 冗談でしょ / そんなのまっぴら」。ヒット・シングル<REHAB>を一度聴けばその気分はわかった ―― 吐き気。その吐き気が、事もあろうに賞をもらった。レコード・オヴ・ザ・イヤー。よりによって世界で最も権威あるポピュラー音楽の賞である。ワインハウスは『BACK TO BLACK』でその吐き気を事前に念押ししていた。アルバム冒頭の<REHAB>に続く<YOU KNOW I'M NO GOOD>。「そう / あたしは単なる厄介 / わかってるわね / まともじゃないって」。