2011年7月24日。起床して身支度する間にBGMをかける。1曲目はエイミー・ワインハウス (Amy Winehouse) の<Love Is a Losing Game>。BGMのつもりが、しばし聴き入ってしまう。彼女の曲の時は大体そうだ。慣れている。その日もそこで聴ける彼女は前回聴いた時とどこも変わりがなかった。聴こえてくるもの全てが素晴らしく、素晴らしいその何もかもが奇妙に壊れている。壊れるところが聴こえてくる。彼女が出発し、その存在を記憶した2003年以来ずっと、それは何もかもを与えようとしながら同時に終始失うこともし続ける音楽のように聴こえていた。
彼女がこの世に遺した2枚のアルバム、2003年の『Frank』(率直、あけすけ) と2006年暮れの『Back to Black』(闇に戻って) は、現在まで聴く者に清濁両方の無類の生命を与え続けた歳月の何倍もの長期に渡って、今後も人々の心を強くとらえ続けるだろう。しかし、そうであることをその音楽は当初からずっと自認も実感もしていない。彼女が死んでしまい、世界のファンが嘆き悲しみ、それ見たことかと彼女の連日の奇行とゴシップに辟易していた部外者がほくそ笑んだ今もなおそうである。
しかし<What Is It About Men>はそのわざわざを実行した。ありきたりどころではない、その重く沈み込むダークで率直な声の独白は、死に損ねたその歴史の上に生きる世界の人々に届いた。どんなわれわれよりも鋭く深く。それにもうひとつ、汚く。その音楽を好きでいる必要はなかった。それは聴く者の五感に憑り付いて掻き乱し、その日常に勝手に居着いてしまうような異質な美を携えていたからだ。
しかし世界の人々は、その我々はどうしたことか、そのわざわざを好きになった。ダークでフランクなその声の重力に自ら好んで捕えられたいと願うほどに惚れ込んでしまった。そこに聴こえ、垣間見える異質で特殊な美がその音楽の、その女性のどこから生じるのか。聴けば聴くほど突き止めずにいられなくなってしまったのだ。「驚異の天才新人女性あらわる」――。決まり文句はあっという間に本国イギリスを飛び出し、世界に広がった。3年後の『Back to Black』を日々、陰に陽に催促するかのように。その催促の彼方に待ち構える黒いものへと無自覚に、無秩序に突き進むかのようにだ。